私の世界・人との邂逅―宮路新墾さん
○出会い
宮地新墾さんとの初めての出会いは、紀伊半島の調査のために、中辺路村にヒヤリング調査に行った時です。宮地さんはその少し前に沖縄から帰って来て、研究所に入ったばかりだと思います。1973年(昭和48年)の2月初めの冬の寒い頃、他の仕事があるのでみんなとは別に1人で後から中辺路村へ追いかけて行く事になり、夜遅くに田辺市からタクシーで中辺路村の鮎川という集落の宿につき、その宿で宮地さんを初めて紹介してもらいました。
そのときの第一印象は、「目付きの悪い田舎の兄ちゃん」という感じで、後で聞く「北白川に住む大学教授の息子」とはとても思えませんでした。目付きが鋭いというか、悪いというか、顔は笑っているのに目は笑っていない所があって、なんか不気味な気がして、「この人ひょっとして、沖縄でなんか悪い事してきたんちゃうやろか」と思ったのを覚えています。
○初めてのデート
宮地さんと仕事をするようになって少し経つと、突然、
「君も女の子とジャズの演奏会のひとつも、行かなあかんで」と言い出すのです。
「ちょうどマッコイタイ†の演奏会のチケット・枚買つて、田渕さん(奥さんの旧姓)誘うし、君も誰か誘って一緒に行かへんか?」
当時、A席の料金が4千500円で2枚9千円、給料は3万5千円程度ですから大変な出費でした。意を決して、女の子を誘って4人で演奏会へ行く事にしました。
会場に入って分かったのですが、宮地さんのチケットは、先に買っているのでかなり前の席で、僕のチケットの席とは少し離れていました。何となく「ほっ」として2人で座ろうとすると宮路さんは、
「彼女ら2人は勉強になるし、前に座らしてあげよ、僕らは後ろでええやんか!」ともの凄いことをいうのです。
結局、初めての演奏会のデートは、宮路さんと2人並んで聞くことになったのです。それから、前衛ジャズは嫌いになりました。
○うまいものを食うこと
宮地さんはよく「なんか、うまいもの食いに行こ」と云って、馬仙山のギヨウザや大津の「ちゃんこ鍋」、家の近くの山里へ連れて行ってくれました。
「人生にはうまいものを食うというイベントがある」ということを教えてもらった気がします。胃潰瘍を手術して「食欲」がそんなにあつたとは思えないので、「うまいものを食う」というのは、精神的な面が大きいと思うのですが、かえって好感が持てました。
2人がいつも、「あれは本当に美味しかったね」と話し合うのは、和歌山県の竜神温泉の下御殿で食べた鳥鍋です。紀伊半島の調査へ行って、熊野市で落ち合った帰りに竜神村で一泊しようとしたのですが、田辺市から竜神村へ向かう頃はもう夜になってしまいました。しかも、雨が降ってきて霧が出てきたのです。ずいぶん山奥へ入ったのに、宮地さんのスカイライン2000GTで幾ら走っても人家の明かりさえ見えないのです。
「宮地さんなんか変やで、回りの景色が全然見えへんよ、ここは山やし杉の木くらい見えてもええのんちゃうの」
「そやねん、前見ても道しかあらへんねん」
「あはは、地獄へ通じてんのんちゃうやろか、この道」
「…………」、宮地さんは笑いませんでした。
そんな道を気が遠くなるほど走ってから、やっと明かりが見え竜神温泉につきました。下御殿で、総桧のお風呂に入って出た食事が鳥鍋でした、
「この鍋、本当に美味しいね」と2人で食べたのです。
次の日、同じ道を通ってビックリしました。山の稜線を道が走っていたのです。何も見えないのは当たり前でした。
○『肉玉と御飯』
月に一度くらい「昼飯でも食わへんか」と電話が掛かってきました。そのときは、大抵、近くの『駒川』に行って、宮地さんは『肉玉と御飯』でした。スキヤキ風の材料を薄味の鍋にしたもので、牛肉だけ少し甘辛く濃厚な味付けがしてあるのです。塩分を控えていた宮地さんには、白菜や肉、卵、豆腐など色々な物が入っていてちょうど良い食べ物でした、
そして、話をするのはほとんど僕で、近況を報告するのです。「はふはふ」と『肉玉と御飯』を食べながら、宮地さんは話を聞いてくれました。今にして思うのですが、なんの気がねもなく話を聞いてくれる人がいるというのは、幸せだったと思います。
(これは宮路新懇さんの追悼集に書いた文を手直ししたものです。)
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