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2011年8月11日 (木)

私の世界・人との邂逅―サインのアルバイトの人々③

実籐君はサインに革命的な技術をもたらしたアルバイトの一人です。当時のPFUはオフコンやミニコンに近い優れたビジネス・パソコン(C180・・シリーズ)を生産販売していて、富士通やNECも同じモデルを同時に販売していました。そのパソコンのプログラムを、マニュアルを読むだけで理解し、作成して、導入の手助け?をしてくれたのです。正直に言って、僕や大ちゃんはそれを真似てPFUのパソコンのプログラムの作り方の初歩を覚えたのです。

彼は大学でシステム工学を専攻していて、趣味でマイコンを下宿で作成し、卒論が関数型言語(今流行)で、アルバイトをサインでやって、まさにコンピュータ漬けです。

私の経験では、その当時の私を含めてプログラマーと称する、ほとんど1つの言語に四苦八苦する、ろくでもない輩が五万と居ました。東京に行って、派遣プログラマーと付き合うと、ほとんどでなく・全く組めないプログラマーを沢山見ることが出来ました。プログラムが組めなくとも員数合わせに机に座っていて、給料が出たのです。

実藤君を見て、本物が居たと言う発見に、大げさでなくコンピュータの将来に希望を見た気がして感動したものです。(少し大げさですが?)

彼の技術を応用して、マルチプロセッシング、通信、画像処理、検査データ管理というCシリーズのフルスペックのソフトを開発し、企業の社長賞やPFUのソフト大賞を幾度も貰えたのです。

話しは別に:当時のソフト開発は、半年や一年単位で、システム・レビューからシステムテストまで、プログラマーは自分の作成したカードディックが成果なのですが、テストが始まるまでは誰も内容を検証することが出来ないのです。SEや顧客との質疑応答が如才なく出来て、対応がうまければ誰も疑うことが出来ません。

恐ろしいことに、6ヶ月もしてシステムテストが始まると、出てこない派遣社員が必ず居るのです。酷いことに、顧客の評判が良く応接が上手なので、主任にした人に限って、プログラムの中身はメチャメチャということがあるのです。彼の一生懸命だったのは、プログラムを作成することではなく、顧客の機嫌を取ることだったのです。

もっと恐ろしいことに、いなくなった人が何処にいって働いているかと言うことです。

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コメント

とても魅力的な記事でした。
また遊びにきます。
ありがとうございます!!

投稿: 履歴書の書き方の見本 | 2011年9月 3日 (土) 12時04分

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