私の世界・知らない世界―「王族に嫁いだ米女性5人・・!?」
ネットのAFPから、「王族に嫁いだ米女性5人=退位して結婚、女優から公妃-事故死や離婚も・・」という記事ですが、何か、野暮、無粋! というか、「米女優メーガン・マークルさん(36)とヘンリー英王子(33)の婚約が11月27日に発表された。2人の前途には、いかなる幸福と困難が待ち受けるのか・・」という「フランス人の王族嫌い(=革命好き)? という感じ・・」(本当のところは知りませんが?)がそのまま出たようです。
・・で、載せなければいいのですが、根が(下品な・・)野次馬根性があって彼女らの行く末をウィキで調べてしまいました。
左からリタ・ヘイワースさん、ヨルダンのヌール妃、メーガン・マークルさん、ウォリス・シンプソンさん、グレース・ケリーさん(AFP=時事)
中でも、“元英国王エドワード8世と結婚したウォリス・シンプソンさん”は「凄い!・・」としか言いようがありません。もちろん、相手の元英国王エドワード8世もで、AFPはこれが言いたい本命ではないでしょうか?
なお、記事の表題では「・・女優から公妃・・」となっていますが、ホープ・クックさんやヌール・アル=フセインさんは女優ではありません。
ウォリス・シンプソンさん
リタ・ヘイワースさん
グレース・パトリシア・ケリーさん
ホープ・クックさん
ヌール・アル=フセインさん
『王族に嫁いだ米女性5人=退位して結婚、女優から公妃-事故死や離婚も
(2017年12月3日 15:25 発信地:英国)
【12月3日 時事通信社】米女優メーガン・マークルさん(36)とヘンリー英王子(33)の婚約が11月27日に発表された。2人の前途には、いかなる幸福と困難が待ち受けるのか。AFP通信によると、世界の王族男性のハートを射止めた米国人女性は過去、少なくとも5人いる。それぞれの人生を振り返った。
1人目は、1937年に元英国王エドワード8世と結婚したウォリス・シンプソンさん。離婚歴があるシンプソンさんとの結婚に王室や政府は難色を示し、エドワード8世は「私の愛する人」と結婚するため、36年1月に即位したが同じ年の12月に退位した。2人の物語は近年、「ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋」として映画化された。
40年代のセックスシンボルとして人気を博した女優リタ・ヘイワースさんは49年、英領インド(当時)出身のイスラム教・地域の指導者アガ・ハーン3世の王子と結ばれた。ヘイワースさんにとって3度目の結婚で1女をもうけたが、すぐに離婚。さらに2回、別の男性と結婚した。
最も有名なのは、ハリウッドのトップ女優からモナコ公妃となったグレース・ケリーさんだ。アカデミー賞主演女優賞を受賞するなど人気絶頂にあった56年、レーニエ3世の熱烈な求婚を受けて「グレース妃」となり、3人の子供に恵まれた。82年に交通事故で亡くなった。
ニューヨーク社交界で名をはせたホープ・クックさんは、インド北東部にあったシッキム王国(75年、インドへ編入)の皇太子と63年に結婚した。出会いは学生時代のインド旅行。妻と死別した皇太子と恋に落ちた。ただ、80年に離婚している。
アラブ系米国人の家庭に生まれたリサ・ナジブ・ハラビーさんは78年、フセイン・ヨルダン国王の4人目の妻「ヌール王妃」として迎えられた。パンアメリカン航空の最高責任者などを歴任した父を持つハラビーさんは、プリンストン大学を卒業した後、ヨルダンで仕事をしていた時に国王に見初められた。99年の国王死去後、慈善事業や核不拡散の分野で活動している。(c)時事通信社
ウォリス・シンプソン(Wallis Simpson:1896年6月19日~1986年4月24日)
ウィンザー公爵エドワード王子(元イギリス国王エドワード8世)の妻。「王冠を賭けた恋」として知られるこの結婚のため、エドワード8世は退位してウィンザー公爵となり、彼女もウィンザー公爵夫人(The Duchess of Windsor)となった。・・・
結婚暦・・
1916年にアメリカ海軍の航空士官ウィンフィールド・スペンサー・ジュニア(英語: Earl Winfield Spencer, Jr.)中尉と結婚したが、夫のアルコール依存症に起因するDVと女癖の悪さに耐え兼ね、1927年の夫の中国への転勤を機に離婚した。
1928年には、ニューヨーク生まれの船舶仲介会社社長のアーネスト・シンプソンと結婚した。アーネストは、父の生まれたイングランドに憧れ、イギリス国籍を取るためイギリス近衛歩兵連隊の少尉になった経歴があり、夫の経営する会社のロンドン支店で働くうちに、社交界に繋がりを持つようになった。これに伴うかたちで、すぐに社交界内の花形になったウォリスは常々「今がとっても幸せ」と語っていたという。
エドワード王太子との不倫
シンプソン夫妻を王太子エドワードに紹介したのは、当時の王太子の愛人であった、ファーネス子爵夫人テルマであった。1931年1月に、夫人の別荘で催されたパーティーにおいて2人は出会い、ウォリスは王太子に一目惚れし、同年6月にはバッキンガム宮殿で開かれた王太子の父ジョージ5世の謁見にシンプソン夫妻が揃って参内した。夫人がニューヨークに出かけた1933年の冬頃、ウォリスは王太子と不倫関係となった。
以降の2年間は、王太子から夫妻揃って幾度となくロンドン郊外の王室所有の別荘に招待される様になったが、王太子は次第にウォリスにのみ極端に緊密に接するようになり、ウォリス自身もその様な王太子にますます惹かれていった。その後の王太子は、シンプソン夫婦がまだ婚姻関係にあるにもかかわらず、外遊には必ずウォリスを同伴させ、高価な宝石などを好きなだけ買い与え続け、王太子の邸宅で同棲するにまで至った。
一方ウォリスの夫シンプソンにも当時愛人がおり、シンプソンは妻と王太子のこのような行状をほぼ黙認していたといわれる。さらにウォリスも、駐英ドイツ大使でその後ドイツの外務大臣となったヨアヒム・フォン・リッベントロップや他のイギリス人とも性的関係にあったと噂された。
1936年1月のジョージ5世の死後、王太子は独身のまま「エドワード8世」として王位を継承し、即位式にはウォリスが立会人として付き添った。しかし、王室関係者はウォリスを「ただの友人」扱いをしたため、エドワード8世はウォリスに対して「愛は募るばかりだ。別れていることがこんなに地獄だとは」などと熱いまでの恋心を綴ったラブレターを送ったり、これ見よがしにウォリスと同年の8月から9月の間に王室の所有するヨットで海外旅行に出かける、ウォリスと共にペアルックのセーターを着て公の場に登場する等アピールを繰り返した。しまいには、スタンリー・ボールドウィン首相らが出席しているパーティーの席上で、ウォリスの夫アーネストに対して「さっさと離婚しろ」などと恫喝した挙句に暴行を加えるなどといった騒ぎまで引き起こした。・・・
リタ・ヘイワース(Rita Hayworth:1918年10月17日~1987年5月14日)
アメリカ合衆国ニューヨーク市ブルックリン出身の女優。1940年代にセックスシンボルとして一世を風靡した。
マルガリータ・カルメン・カンシーノとして生まれる。両親共にダンサーであり、自身も12歳から舞台に立ち、10代のはじめには週に20ステージも踊っていた。
1935年にFOXと契約して映画デビューしたがすぐにフリーに戻り、しばらくしてコロムビアと契約。その時にスタジオから髪を赤毛に染めるように言われた(地毛は濃い茶色)。また、生え際に電気処理を施して額を広くする処置も行った。
2年の間小さな役をこなした後、1939年、ハワード・ホークス監督の『コンドル』で注目を集める。その後、ジェームズ・キャグニー主演の『いちごブロンド』やタイロン・パワーの『血と砂』、フレッド・アステアと共演した『踊る結婚式』などでスターの座を掴む。豊かな赤毛がトレードマークの彼女は、テクニカラー作品によく映えた。
彼女の魅力が最も発揮された作品は1946年の『ギルダ』である。チャールズ・ヴィダー監督のフィルム・ノワールで彼女は運命の女ギルダを演じ、セックス・シンボルとして絶大な人気を誇った。1947年には$250,000の年俸と、出演映画の収益の50%の契約をコロムビアと結んだ。
プライベートではオーソン・ウェルズ(2番目の夫)やアーガー・ハーン3世の息子Prince Aly Khanなどと5回の結婚歴があり、娘が2人いる。1960年代からアルツハイマーを患い、1987年にその生涯を閉じた。甥は声優のリチャード・カンシーノ。
グレース・パトリシア・ケリー(Grace Patricia Kelly:1929年11月12日~1982年9月14日)
モナコ公国の大公妃。もとアメリカ合衆国の女優。同時代の女優マリリン・モンローの明るさとセクシーさを前面に出した美貌とは対照的な、気品に満ちた容姿が「クール・ビューティー」(cool beauty)と賛美された。人気絶頂の最中、ヨーロッパの君主と結婚し女優業から引退した。・・・
ホープ・クック(Hope Cooke、1940年6月24日~)
シッキム王国の元王妃。元夫のパルデン・トンドゥプ・ナムゲルは、最後のシッキム王。インドのシッキムの乗っ取りが始まった5ヶ月後に、クックは子供をニューヨーク市の学校に入れるために2人の子と米国に戻った。1980年にナムゲルと離婚。その後、自伝『時間変化』(サイモン&シュスター、1981)を著し、講演者、批評家、および雑誌への寄稿者として活動した後、都市歴史学者になった。
1959年、サラ・ローレンス大学に入学し、アジアの比較文化を専攻する。同年インド旅行中にホテルのバーで当時シッキム王国皇太子であったパルデン・トンドゥプ・ナムゲルと出会い、1961年に結婚した。
1963年3月20日、仏教の修道院においてに挙式(ご成婚)。式への出席者には、インドの各界の要人や米国の駐印大使などがいた。このときに米国の市民権を離脱している。政教一致の仏教(チベット仏教)国のシッキム王であるナムゲルは当然ながら仏教徒であったが、クックはキリスト教の信仰を捨てず、国内の保守派から不興を買う原因となった。
同時に、シッキムはインドから併合圧力をかけられた緊張のもとにあったが、インド軍が王宮親衛隊を武装解除し、1975年4月10日にシッキム王国は消滅した。その後米国に亡命したバルデン元国王とともにニューヨークへ移住するが、1980年に離婚した。1983年にマイク・ウォレス(米ジャーナリスト?)と再婚したものの、後に再び離婚している。
ヌール・アル=フセイン(Noor al-Hussein:1951年8月23日~)
ヨルダン国王フセイン1世の4人目の妃。結婚前の名前はリサ・ナジーブ・ハラビー(Lisa Najeeb Halaby)。
アメリカ合衆国ワシントンD.C.でシリア系アメリカ人の家庭に生まれた。プリンストン大学で都市計画を学び、ヨルダンの首都アンマンで働いていた頃フセイン1世に見初められ、1978年6月15日に結婚した。王妃となってからは地雷禁止国際キャンペーンの活動に携わり、1995年からユナイテッド・ワールド・カレッジの学長、1996年から行方不明者国際委員会の委員を務めている。(=ウィキペディア)
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