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2019年8月12日 (月)

私の世界・知らない世界―「宣教師に連れられ日本に来て、信長の家臣となった弥助・・!?」

 ネットのCNNのニュースから、「アフリカから黒人奴隷としてインドへそして宣教師に連れられ日本に来て、織田信長の家臣となった、弥助という人・・」の話です。

 少し記事が長いのですが、面白く思い後のウィキの内容も見てください。

 小学生の高学年?の時、アメリカの空母が関西に来たので見に連れて行かれて、初めて黒人の衛兵を身近に見て、その黒光りした美しい肌や目、大きく頑強な体に、信長が大黒様と思ったのと同じに、もの凄く感動したのを覚えています。

 それと本能寺の戦で囚われた時、「日本人ではないことから解放・・」と「信長の弥助への最後の指示は、刀と首を息子のもとに届けるよう命じる内容・・」は光秀は弥助を刑罰の対象となる「人でなし(日本の侍ではない=人ではない)」としたこと、そのことを信長があらかじめ予想したかも?と考えると歴史は深い!?と思いました。

奴隷から侍となった弥助。アフリカから来て16世紀の日本で生きた/Photo Illustration/ Kobe City Museum, shutterstock

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ポルトガルの黒船がゴアやマカオから日本に到着する様子//Via Wikimedia Commons

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織田信長は日本で最も強力な大名と考えられていた/Kano Soshu via wikimedia commons

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織田信長は本能寺の変の後、「腹切り」を余儀なくされた/Via wikimedia commons

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ポルトガル人の長崎来訪の様子を描いた屏風絵/Rijksmuseum

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日本に到来したイエズス会宣教師などの南蛮人たち。白人が連れる黒人奴隷の召使も描かれている。(=ウィキより)と『信長公記』の「切支丹国より、黒坊主参り候」部分:国立国会図書館デジタルコレクション 『信長公記』第19巻 近藤出版部〈史籍集覧〉、1926年、204頁。

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『アフリカ人のサムライ――弥助が残した不朽の遺産

(2019.08.11 Sun posted at 13:30 JST)

香港(CNN) 封建時代の日本で権勢をふるった大名、織田信長が1581年、黒人奴隷から家臣となる弥助に会ったとき、信長はこの男性を神だと思った。

信長はそれまでアフリカ出身者を目にしたことがなかった。「African Samurai: The True Story of Yasuke, a Legendary Black Warrior in Feudal Japan」の著者、ロックリー・トーマス氏によると、当時の都だった京都の住民と同様、信長は弥助の背丈や体格、肌の色に畏怖の念を抱いたという。

「弥助が(イエズス会の宣教師とともに)京都に到着した際、現地は大騒ぎになった。人々は彼の姿を一目見たい、そばに行きたいと躍起になった」とロックリー氏は語る。調査と執筆に9年を費やした同書は4月に出版された。

信長は弥助を「大黒天」ではないかと考えた。大黒天は豊穣(ほうじょう)の神で、寺院では通常、黒い像によって表現されている。信長は弥助の肌の色は墨によるものだろうと思い、こすり落とそうとした。本当に黒人だと納得すると、直ちに宴会を開いて敬意を表したという。

政治的策謀や無慈悲な暗殺、忍者による襲撃が横行していた時代にあって、弥助の存在は強みになると見なされた。イエズス会の記録によると、信長はすぐさま弥助を侍に取り立て、従者や住居、扶持(ふち)まで与えたとされる。

日本では今日、世界初のアフリカ系侍としての弥助の伝承はよく知られており、賞を取った児童書から漫画「アフロサムライ」に至るまで、多彩な関連作品が生まれてきた。

弥助の伝承は世界にも広がり続けている。

映画「ブラックパンサー」で主演を務めた俳優、チャドウィック・ボーズマンは5月、ハリウッド映画で弥助を演じると発表。脚本は「ナルコス」を共同で手がけたダグ・ミロだ。

ロックリー氏によると、弥助の物語が再び脚光を浴びている背景には、2020年東京五輪を前に、均質な日本社会で多文化主義の概念が改めて問われているという事情がある。

生い立ち

史料が乏しいため、弥助の出自は今なお謎に包まれている。研究者の間ではモザンビーク出身との見方がある一方、スーダン出身との説もある。

ロックリー氏の見方では、弥助は幼少期にアラブかインドの奴隷商人によって拉致され、アラブ諸国やインド洋を連行された。おそらく奴隷として働き、子ども兵の訓練を受けてインドのグジャラートやゴアで戦った後、ポルトガル出身のイエズス会宣教師により従者に雇われたとみられる。

当時、ゴアはインドのポルトガル人にとって交易、宣教、軍事の主要拠点となっており、アフリカ人奴隷売買の中心地でもあった。

弥助はこの場所で、アジアで最も権勢を誇っていた宣教師アレッサンドロ・バリニャーノに出会ったとみられている。バリニャーノは弥助を従者兼護衛にした。

ロックリー氏によると、バリニャーノ一行は1579年に船で九州の口之津に到着した。

バリニャーノはローマを出発後、6年間にわたりポルトガルやモザンビーク、インド、マレー半島、マカオを回っていた。来日の狙いは数千人にキリスト教を布教することだった。

だが、布教は容易ではなかった。

忍者、僧兵、侍

バリニャーノが到着した時、日本は1603年まで続く激しい内戦のただ中にあった。

「戦国時代」として知られるこの時代、日本では各地の領国を拠点に数百人の有力武将が権力を争った。

表面的に平和が回復したのは、残った大名たちが天下統一を試みた時のことだ。

織田信長はこうした大名の中で最も強力となり、京都を支配下に置いた。今日では徳川家康や豊臣秀吉とならび天下統一を導いた3武将の1人とみられている。

しかしロックリー氏によれば、信長の躍進をもってしても、中小大名や過激な僧兵、領地争いを続ける賊(ぞく)を阻止するには至らなかった。バリニャーノは保護を必要としていた。

イエズス会士が各地の大名と連携するなか、長身の弥助は軍事経験を生かしてリスク察知に力を発揮したという。他の民兵の訓練を担ったほか、自らも武道や剣術などの新技能を習得した可能性が高い。

こうした技能が後に信長の目にとまったとみられる。信長にはまた、日本語に堪能になっていた弥助から世界情勢を聞き出す狙いもあった。

「弥助は初めこそ物珍しい余興の種とみられていたものの、1カ月以内に侍として重用されるようになり、信長の側近の一員になった」「史料によると、信長はとにかく弥助と話すのが好きだった」(ロックリー氏)

この当時、侍は日本の支配階級を構成していた。

弥助の禄高に関する記録は残っていないことから、ロックリー氏は、どの程度の地位だったのか知るのは難しいと指摘。信長の小姓または身辺警護役に相当する身分だったのではないかと推測する。

弥助は日本で最も有名な海外出身武士となったが、信長と過ごした時間は短かった。

侍から牢人に

1581年、弥助は織田軍による伊賀侵攻に加わった。

信長は4万~6万人の軍勢を擁する忍者の地、伊賀を攻撃。息子の信雄による1579年の伊賀攻めは失敗に終わっていたものの、今回は攻略した。

弥助にとって、これが信長の下での最初の戦になったという。

2度目にして最後の戦は1582年6月で、織田軍の武将、明智光秀が信長の京都での滞在先に襲撃を仕掛けた。

この襲撃が引き金となり「本能寺の変」が勃発。天下統一に向けた信長の計画には終止符が打たれた。

敗北を前にした信長は、名誉を守るため自害した。信長が「切腹」と呼ばれる儀式を行い、腹部に刺した短刀を水平に動かすと、近臣の森蘭丸が首をはねた。

ロックリー氏が明かす言い伝えによると、信長の弥助への最後の指示は、刀と首を息子のもとに届けるよう命じる内容だった。

「信長の首が他人の手に落ちるわけにはいかなかった。弥助の仕事は一族の権力を維持することだった」

信長の死後、弥助に関する記録はますます少なくなる。最後の言及とみられるのはイエズス会士による1582年の記述だという。

米タフツ大学のゲイリー・レアップ教授(歴史学)によると、弥助は敵勢の捕虜となったものの、日本人ではないことから解放された。弥助は主君を持たない侍「牢人」となっていた。

ロックリー氏は弥助のその後について、再びイエズス会宣教師の護衛を務めたか、船員や海賊になった可能性もあると推測している。

弥助が残したもの

弥助の存在は歴史書に記されてきたが、戦国日本で唯一の外国人だったわけではない。

当時の九州には大勢の朝鮮人と中国人が住んでいた。欧州出身者やインド人、アフリカ出身者も数多く日本を通過した。

彼らの存在は当時の屏風(びょうぶ)に記録されており、黒船による来訪や、地元住民に交じっての生活の様子が描かれている。

こうした装飾性の高い屏風は上流階級が所有していたもので、1590年代前半に制作された。その1つは黒人男性と日本人武士による相撲の試合を描いており、ロックリー氏は弥助と信長ではないかとみている。

「弥助が表舞台に登場したのは信長に仕えたためだ。私たちにはその生涯や名前、行動、性格に関する情報が残されている」

「似た境遇の他の人物の場合、これほどの記録はない。彼らの生活を描き出すのは不可能だ」

弥助の人生はこれまで、フィクションを通じて再構成されることが多かった。

作家の来栖良夫氏は1968年、弥助の生涯をもとに児童書「くろ助」を執筆。近年はテレビの歴史ドラマや漫画にも登場している。

日本で多文化主義や多様性に関する議論が活発になっている今こそ、弥助の物語を語り直す好機だと、ロックリー氏は指摘する。

「奴隷の境遇を脱し、外国人ながら日本の支配者の下で高位に登用された弥助の物語には、今なお一種のロマンや謎が漂っている」

「彼にふさわしい注目が注がれる時代になったと感じる」

・弥助(やすけ、生没年不詳)

戦国時代の日本に渡来した黒人で、宣教師所有の奴隷として、戦国大名・織田信長への献上品とされたが、信長に気に入られ、その家臣に召し抱えられた。

弥助の出自については、フランソワ・ソリエが1627年に記した『日本教会史』第一巻に記述がある。イエズス会のイタリア人巡察師(伴天連)アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日した際、インドから連れてきた召使で、出身地はポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)であると記されている。ヴァリニャーノは日本に来る前にモザンビークに寄港した後インドに長く滞在していた経験があり、弥助が直接ヴァリニャーノによってモザンビークから連れてこられたのか、それとも先行してインドに渡っていたのかはこの文章からは不明である。

天正9223日(1581327日)に、ヴァリニャーノが信長に謁見した際に奴隷として引き連れていた。『信長公記』には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述され、年齢は26歳~27歳ほどで、「十人力の剛力」、「牛のように黒き身体」と描写されている。

天正9311日(1581414日)付でルイス・フロイスがイエズス会本部に送った年報や、同時期のロレンソ・メシヤの書簡によれば、京都で黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して喧嘩、投石が起き、重傷者が出るほどであった。初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかとなかなか信用せず、着物を脱がせて体を洗わせたところ、彼の肌は白くなるどころかより一層黒く光ったという。

本当に彼の肌が黒いことに納得した信長はこの黒人に大いに関心を示し、ヴァリニャーノに交渉して譲ってもらい、「弥助」と名付けて正式な武士の身分に取り立て、身近に置くことにしたと、イエズス会日本年報にあり、信長は弥助を気に入って、ゆくゆくは殿(城主)にしようとしていたという。また、金子拓によると、『信長公記』の筆者である太田牛一末裔の加賀大田家に伝わった自筆本の写しと推測される写本(尊経閣文庫所蔵)には、この黒人・弥助が私宅と腰刀を与えられ、時には道具持ちをしていたという記述がある。

『家忠日記』の天正10419日(1582511日)付けの記述には「上様御ふち候、大うす(デウス)進上申候、くろ男御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥助ト云(信長様が、扶持を与えたという、宣教師から進呈されたという、黒人を連れておられた。身は墨のようで、身長は約1.82メートル、名は弥助と云うそうだ)」とその容貌が記述されている。これは弥助も従軍していた甲州征伐からの帰還途上に、信長が徳川領を通った時に家康の家臣である松平家忠が目撃したものであるが、日記の記述に弥助は下人や年季奉公人のような隷民ではなく扶持もちの士分であったとはっきり書かれている。

天正1062日(1582621日)の本能寺の変の際には弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀の襲撃に遭遇すると、二条新御所に行って異変を知らせ、信長の後継者の織田信忠を守るため明智軍と戦った末に投降して捕縛された。『イエズス会日本年報』によると、「ビジタドール(巡察師)が信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した」という。

家臣にどう処分するか聞かれた光秀は「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として処刑せず、「インドのパードレの聖堂に置け」と言ったので、南蛮寺に送られることになって、一命を取り留めた。現代から見れば、この処遇は光秀の黒人に対する蔑視を表していると考えられなくもない。
<消息>

その後の弥助の消息については、史料に現れないために全く分かっていない。

その後の他地域の史料の中には黒人が登場するものがいくつかあり、フロイスの『日本史』の沖田畷の戦いの記述の中にも大砲を使って活躍した有馬方の黒人が出て来る。

<信長のデスマスク>

愛知県瀬戸市定光寺町の西山自然歴史博物館には、信長と伝わるデスマスクが展示されている(信長であるという確証はない)。織田秀信の庶子を称したという織田秀朝(西山清明)の末孫を主張する西山館長によれば、弥助という黒人の家臣が持ち出した信長の首から作られたという。(=ウィキペディア)

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