私の世界ー人との出会い・怪人仁木哲(リメイク)
<その①>
原発事故のことを考えているとき、ふと「仁木哲」を思い出して、ネットで検索してみたら意外なことに有益な情報は以下の2つでした。
○「小松左京自伝 実存をもとめて」(日本経済新聞社出版社)より
「・・・もう一人世話になったのが、旧制高校時代の寮長だった仁木哲?という人で、この人が『放送朝日』という朝日放送のPR雑誌の編集長をしていたので、この雑誌に紀行文明論「エリアを行く」を連載(単行本は『地図の思想』『探検の思想』)。この雑誌は、梅棹忠夫や加藤秀俊も執筆している雑誌で、その関係で彼らと交流ができたそう。」
○加藤秀俊氏のブログの「PR誌の人びと」より
「そういう大阪ジャーナリズムのなかでまことに異色というべきものは月刊誌『放送朝日』であった。これはその誌名がしめすように朝日放送のPR雑誌であって、その編集長は仁木哲さん。この人物は美談、奇談、逸話にはこと欠かぬ人で、わたしは『放送朝日』の発刊(一九五五年六月)とほぼ同時に、仁木さんにひきずりこまれて、この雑誌に寄稿することになった。それもほぼ常連的に執筆、というひきずりこまれようである。」
仁木哲さんとの出会いは、電力関係の広報の仕事で住民アンケートの分析を下請けしたときに広報コンセプトやレポートの作成を手伝ってもらい、一緒に仕事をしたのがきっかけでした。もう30年以上も前の話です。
ギャラは元受のAAPという会社が払っているので私が雇っていたのではないのでが、気むらというか、天才と言うか、原稿をなかなか書いてくれないのですがひとたび気が向くと半日もしないで凄いレポートを作ってしまうのです。
東京を逃げ出して最初はPHPの嘱託で、京都駅前のビルの一室に机があって、アルバイトのつもりで原稿を請け負っていたのではないかと思うのです。
一緒にいて電話が掛かってくるといつも、
「君が出てくれへんか」
というので、出てみるとたいてい東京からの借金の返済の督促でした。
<その②>
仁木哲さんは190cm以上の長身で、江戸時代に外国の異人を天狗の様に描いた絵がありますが、まさしく彼の姿そのものなのです。容貌怪異とは彼のためにあるような言葉ですが、笑うとチャーミングでそのギャップが人を放さない魅力的なところとなっているのです。
①で述べたように『放送朝日』という朝日放送のPR雑誌の編集長をした後、東京に出てトヨタ財団の現代文化研究所の初代所長になります。ちょうど大阪万博の前で、トヨタ館やその他プロジェクトのプロディユースをした頃が一番活躍した時だと思います。その頃の話をすると、田中角栄や黒川紀章などの著名人の名がぽんぽんと出てきます。
その後、某有名企業のPR雑誌の編集を頼まれて、
「会長の金を64億円?使い切ってしまった。」
とすごいことを言うのです。
現文研の頃から、ストレスもあってウィスキーをボトルで飲みながら仕事をしていたようで、お酒が原因で辞めたのか、まだ禁制品でなかったLSDもずいぶんやったそうです。
「LSDはあかんよ、肝臓に来る。」
はいつもの彼の台詞でした
<その③>
知り合ってからしばらくして、仁木さんは株式会社仁研究所を立ち上げます。
「君も出資してくれへんか?」
と仁木さんは言うので10万だけ出資したら、発起人の取締役にするのです。
仁研究所は錦市場で有名な卵屋さんの持ちビルの二階でした。最初の取締役会はすき焼きの「かのこ」でしたが、集まってビックリしたのは、末石先生が参加者だったのです。仁木さんは三高のとき寮長だったそうで、末石先生も仁木さんとその頃の同級生だったのです。私が若い頃、始めて淀川流域総合計画に参加して汚濁負荷量の計算をやったとき、末石先生の指導を受けた人の指導を受けた人の指導を受けた(間違いなく3回以上続く)ので、私には神様のような存在なのです。
研究所には多彩な人が集まりました。私の事務所は仁木研究所へ5分とかからない近くだったので、特別な人が来るとよく電話がかかってきて呼び出されるのです。
研究所に来る人は特徴がありました。世間で言う超一流の人ではありませんでしたが、世が世であれば超一流になれた、もしくはなれそうな人達が沢山訪ねて来ました。
そして、いろいろ話をしてから仁木さんは最後にかならず、
「誰々(超一流の人)はあかん、彼より、あんたのほうがなんぼか優れている。世間があほなんや。」
と言うのです。
来客は得々として帰っていくのでした
<その④>
仁木研究所の仕事は、知り合いの企業の原稿が主なはずなのですが先生は大した収入にならないので余り気が乗らないのか、ほとんど何もしないで、お客さんが来る以外は私を呼んでパチンコの話や世間話でした。
(私は当時、仁木さんを「仁木先生」と呼んでいたので以下、先生と書きます。)
ただ変なのは、パチンコの話はほとんど奥さんがして、先生は時々相槌を打つだけです。先生は東京のときは、そうではなかったと思うのですが夫唱婦随と言うかいつも奥さんが付いて先生の秘書がわりに世話をしていました。少女がやっと自分だけのお人形を手にしたように幸せそうでした。
奥さんは先生とは正反対の小柄の京女で、若いときはきっとすごい美人だったんだろうなあと思わせる人です。
ただ、そのことを言うと「プイッ」っとして、
「今はどうなの?」
と聞いて、私をわざと困らせるのです。
確かに、先生に会うのは口実で、奥さんの女学校の頃のファンではないかと思う人が何人か尋ねてきました。
先生が俄然やる気を見せたのは、いわば「プロジェクト屋」とでも言うもので、思付いたり、一丁噛み?しようとしたプロジェクトは、『浜大津港湾地域再開発計画』や『八重山諸島身障者コロニー計画』、『国際大学院大学計画』などです。注)現実の組織、計画とは無関係です。
そのようなプロジェクトが始まると、出入りする人が変になって、「ダリ?の弟子の建築デザイナー」とか「某有名大使の弟?」などが来ました。
先生は、まだ万博の頃にやったプロデューサーのうま味が忘れられないのです。
<その⑤>
仁木先生は自論を述べると、
「これからの生物学や社会科学は『ネオテニー』がキーワードになる。」
が直ぐ出てきて、早く論文としてまとめたいようでした。
『ネオテニー(neoteny)は、動物において、性的に完全に成熟した個体でありながら非生殖器官に未成熟な、つまり幼生や幼体の性質が残る現象のこと。幼形成熟、幼態成熟ともいう。』(=ウィキペディア)
アシュレイ・モンターギュの『ネオテニー』が1986年ですから、目をつけていたのは先生の方が早いのかもしれません。私がもう少し、博学であったならと残念なのは、
『ゴニター第五伯爵が鯉の内臓を食べると長寿になれると信じて、その日々の経緯を日記にのこした。その日記が百数十年後になって発見された。興味をもった連中が日記の記述にしたがってあちこち探索してみたところ、ある城の一室で化石のように蟄居していた老いぼれが発見された。伯爵だった。その姿はまるで類人猿の胎児がそのまま二百歳ほど成長した様相と顔貌だった。
オルダス・ハックスレーの「夏の白鳥」である。』(=松岡正剛:千夜千冊)
の話や、ボルクの「ヒトは性的に成熟したサルの胎児なのである!」の話を後で知ったことです。
先生と、もう少し議論が出来る私であったならと今さらながら思うのです。
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