文化・芸術

2020年6月15日 (月)

私の世界・面白い話のネタ―「ロンドン、最古とみられる劇場の跡を発見・・!?」

 ネットのCNNのニュースから、「英国の考古学者のチームがこのほど、ロンドン東部ホワイトチャペル地区の建設現場の地下から、同市で最古とみられる劇場の跡を発見・・」という話です。

16世紀の劇場「レッド・ライオン」の跡とみられる構造物がロンドン東部で見つかった/Archaeology South-East/UCL

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劇場の舞台の外観を再現した3D図/Archaeology South-East/UCL

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17世紀のジョッキも出土した。英国王チャールズ2世を支持する王党派の円形模様が彫られている/Archaeology South-East/UCL

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 日本はそれより古いのでは?と調べてみると、現存する最古の芝居小屋は旧金毘羅大芝居で「1835年(天保6年)に棟上げを行い、翌年完成」だそうです。

旧金毘羅大芝居

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 現存する能・狂言の舞台はもっと古く西本願寺の北能舞台が1581年(天正9年)だそうでロンドンの16世紀の劇場「レッド・ライオン」と同じ頃からのものになります。

北能舞台

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 ただ、能狂言の元となる猿楽は「永和元年(1375年)、室町幕府の三代将軍足利義満は、京都の今熊野において、観阿弥とその息子の世阿弥による申楽を鑑賞・・」とあるように、少なくとも14世紀にはその舞台が存在したはずです。

 ・・で、その劇場「レッド・ライオン」の場所ですが、いろいろ試みましたが発掘の建設現場分かりませんでした。

 代わりに!というのは変ですが、パブの「レッドライオン」の場所です。

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パブの「レッドライオン

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話は別に;劇場「レッド・ライオン」では「シェークスピアの作品が複数上演・・」ということですが、シェークスピアは1564426日(洗礼日)から1616423日の人、日本の女性が凄いと思うのは、紫式部はシェークスピアより約6百年も前に「源氏物語」【初出は1008年(寛弘五年)】を作品にしているのです。

『ロンドンで16世紀の劇場跡を発見、市内最古か

2020.06.13 Sat posted at 18:00 JST

(CNN) 英国の考古学者のチームがこのほど、ロンドン東部ホワイトチャペル地区の建設現場の地下から、同市で最古とみられる劇場の跡を発見した。

エリザベス朝様式のこの劇場は「レッド・ライオン」の名で知られ、1567年ごろに建てられたとみられる。ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン(UCL)の考古学研究所に属するチームが明らかにした。

劇場の存在は当時の史料に記録されているものの、物質的な証拠はこれまで見つかっておらず、実際の所在地も確認できていなかった。それでも現時点での証拠を総合して考えると、今回の発見がレッド・ライオンの建物跡であることは「97%間違いない」と、発掘責任者のスティーブン・ホワイト氏は語る。

発掘現場からは劇場に使用されたとみられる木材が腐食の進んだ状態で見つかった。ホワイト氏は、あと10年発掘が遅れていたらこれらの木材は完全に朽ちていただろうと指摘。「発見できたのは奇跡以外の何物でもない」と強調した。

1567年の法律文書には、レッド・ライオンと呼ばれる建物に木製の舞台が設置されていたとの記述がある。また2年後に書かれた別の文書によれば舞台の寸法は南北に約12メートル、東西に約9メートル、地面からの高さは約1.5メートルだった。

もともと農場付きの建物でビールなどを提供していたレッド・ライオンは、16世紀後半に舞台と座席を建設して劇場を運営。その後は宿屋として少なくとも18世紀まで事業を継続した。

レッド・ライオンに劇場を作った事業家のジョン・ブレインは、この経験をもとに1576年、同じロンドンのショーディッチ地区の劇場建設に携わる。この劇場では1590年代、若手の劇作家だったシェークスピアの作品が複数上演された。

<旧金毘羅大芝居>

香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮・門前町にある、現存する中では日本最古の芝居小屋。別名、金丸座(かなまるざ)とも呼ばれ、国の重要文化財の指定を受けている。

古くから信仰を集める金刀比羅宮は、江戸時代には金毘羅講など多く参拝者を集め、門前町は琴平が朱印地・天領であることで取締も寛大で、様々な芝居、相撲、操り人形などの興行が行われた。芝居の興行に仮り小屋がその都度建てられていた(年3回程度)が、当時の大坂道頓堀三座のひとつでもある大西芝居(一説には大阪にあった筑後座とも云われる)を参考にして、1835年(天保6年)に棟上げを行い、翌年完成する。この金毘羅大芝居には江戸、大坂などの千両役者が舞台を踏み、全国にも知られた芝居小屋であり、また富くじの開札場としても使用された。・・・(ウィキペディア)

<北能舞台>

西本願寺にある桃山時代建築の国宝建造物。日本に現存する最古の能舞台で、天正9年(1581)の墨書銘がある。書院の北側に位置するところから北能舞台と呼ばれる。(=京都Nabiより)

<猿楽>

室町時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである。・・・

永和元年(1375年)、室町幕府の三代将軍足利義満は、京都の今熊野において、観阿弥とその息子の世阿弥による申楽を鑑賞した。彼らの芸に感銘を受けた義満は、観阿弥・世阿弥親子の結崎座を庇護した。これがのちの観世座の前身である。この結果、彼らは足利義満という庇護者、そして武家社会という観客を手に入れることとなった。また二条良基をはじめとする京都の公家社会との接点も生まれ、これら上流階級の文化を取り入れることで、彼らは申楽をさらに洗練していった。その後、六代将軍足利義教も世阿弥の甥音阿弥を高く評価し、その庇護者となった。こうして歴代の観世大夫たちは、時の権力と結びつきながら、申楽を発展させ現在の能の原型として完成させた。

なお、室町時代に成立した大和申楽の外山座(とびざ)・結崎座(ゆうさきざ)・坂戸座(さかどざ)・円満井座(えんまいざ)を大和四座(やまとしざ)と呼ぶ。それぞれ、後の宝生座・観世座・金剛座・金春座につながるとする説が有力である。・・・(ウィキペディア

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2020年1月 6日 (月)

私の世界・知らない世界―「最も劇的な儀式用マスク・・て、日本でも!?」

 ネットのCNNから、「最も劇的な儀式用マスク、写真家がとらえる伝統の息遣い」と言う記事ですが、『「世界の伝統部族の仮面」を言うなら日本にも・・』ということで調べてみました。

米アラスカ州に住むトリンギット族が使用するオオガラスのマスク/Chris Rainier

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ネパールのムスタン郡で撮影したシカのマスク。世界各地のマスクを見る/Chris Rainier

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ブータンのパロで仏教徒が身に着けているマスク/Chris Rainier

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スリランカ南部に伝わる悪魔をかたどった儀式用マスク/Chris Rainier

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ニューギニア島の部族の儀式で使われるマスク/Chris Rainier

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 日本では縄文時代から面(土面、貝面:新潟県立歴史博物館の展示)がありました。

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 能(能楽)などに用いる仮面(能面)等は、わざわざ仮面とは称さず、単に面と呼ぶ(専門的には「おもて」と呼ぶ)。そうした面のていねい語がお面であり、現在でも祭礼などの際に大道で的屋が子供向けにさまざまなキャラクター物を販売している。(ウィキより)

 以下は伊豆熱川温泉・日本仮面歴史館のHPにある「福福和神面」から、最近の作り物のようですが、それでも日本の「お面」文化の凄さ!?が垣間見られます。

蟹山伏(かにやまぶし)の賢徳:山伏が供を連れて沢に差し掛かると蟹の精が現れる。供のものが取り伏せようとするが逆に耳を挟まれる。 助けようとした山伏も捕まってしまう。

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方相氏;大晦日や節分に行われる追儺(ついな)式、即ち鬼やらいの時に魔や鬼を払う為に出てくる神様、或いはその神様に扮装する役目の人々の呼称である。 また、天皇・親王・太政大臣の葬送の際には棺を載せた車の先導をも務めた。

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 最後に奈良国立博物館蔵品の狂言面の武悪、やはり本物は何か?違います。

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狂言の武悪:主人から武悪を討つよう命じられた太郎冠者が、殺すに忍びず逃がしてやるが、道で主人と武悪が出会ってしまう。一計を案じて武悪は幽霊に化け、主人をさんざん脅かす

『最も劇的な儀式用マスク、写真家がとらえる伝統の息遣い

2019.12.30 Mon posted at 19:00 JST

写真家クリス・レイニア氏(61)が初めて儀式用マスクに魅せられたのは1980年代半ばのことだ。写真撮影のためニューギニア島を旅行中、フウチョウの羽の装飾を身にまとった部族の一員に出くわした。

マスクをかぶったその男との遭遇は平和的に終わった。その出会いが、あるアイデアを思いつくきっかけとなったが、そのアイデアが実を結ぶまで30年以上の時間を要した。そこからさらに10年間、ニューギニア島の部族や伝統を記録しているうちに、レイニア氏はマスクのとりこになった。

「自分のやりたいことは、世界中の伝統的マスクの跡をたどることだと確信した」と、レイニア氏は電話インタビューで語った。

レイニア氏はその言葉通り、モンゴル人のシャーマンやブータンの修道僧など、世界6大陸のマスクを付けた人々の写真を撮り続けた。「マスク」というシンプルなタイトルのレイニア氏の新しい写真集には、マスクの多種多様な外観や機能を紹介した130枚を超える写真が掲載されている。

マスクは神、動物、祖先を象徴している。儀式、結婚式、成人式で使われ、特に自分は霊界と通じ合えると信じている人々が使用する場合が多い。見た目が穏やかなマスクもあるが、レイニア氏のコレクションに写っているマスクは、目を大きく見開いた悪魔や鋭い歯を持つ獣など、想像上の生き物のような不気味な外観をしている。

このプロジェクトは、主に辺境の地に存在する部族文化に焦点を当てているが、中には日本の侍やメキシコの「死者の日」で使用される頭蓋骨(ずがいこつ)のマスクなど、一般によく知られた衣装の写真もある。

たしかにそれらのマスクは今も「現役」かもしれないが、撮影した儀式の多くは危機に瀕しているとレイニア氏は指摘する。全世界に近代化の波が津波のように押し寄せる中、レイニア氏は自らの活動を「時間との戦い」と表現した。

レイニア氏は「伝統を撮影し、保存することは写真家である自分の役目と考えている」とし、さらに次のように続けた。

「今から50年か60年後に、ニューギニアのある若者が、自分の祖父や曽祖父がはるか昔に失われた踊りを踊っている写真を見た後、その衣装を手に取って踊りだすかもしれない。私はその可能性のためにやっている」

「写真は、世界中の伝統の再生、維持、普及において非常に大きな力を発揮しうる」(レイニア氏)

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2019年7月29日 (月)

私の世界・知らない世界―「今年4月に成立したアイヌ新法・・!?」

 ネットのCNNのニュースから、「今年4月に成立したアイヌ新法・・」を全然、知らずにいましたが、この記事を読まなかったら、「もう、一生アイヌの人のことは考えなかった・・」と思うのです。

 特に、アイヌ語を話せることが出来る人が2人なんて、新法により廃止された「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律(平成9年法律第52号)」は「何の役にも、立っていなかったの・・!?」と言いたくなります。

 小学校の頃、アイヌの舞踊団の人達の公演やアイヌのお話を聞いた記憶があります。戦後民主教育の申し子ですから、アイヌの人のことは強く胸に刻まれています。今その風潮が全くありませんし、政府のゴリ押しだらけです。

 特に最近、アイヌのことを聞いたことがありません。以前、アイヌ出身の人が参院選に出たこともあったと記憶しています。調べると、萱野茂さんは亡くなっていますがアイヌ初の日本の国会議員でした。

 薬害やらい病患者、沖縄の人達と同じに、日本政府は、まず心から詫びる必要があり、それが新法には欠けています。

萱野 茂(かやの しげる、1926615 - 200656日)

日本のアイヌ文化研究者(博士(学術))であり、彼自身もアイヌ民族である。アイヌ文化、およびアイヌ語の保存・継承のために活動を続けた。二風谷アイヌ資料館(シシリムカ二風谷アイヌ資料館)を創設し、館長を務めた。政治活動面ではアイヌ初の日本の国会議員(1994年から1998年まで参議院議員)。在任中には、「日本にも大和民族以外の民族がいることを知って欲しい」という理由で、委員会において史上初のアイヌ語による質問を行ったことでも知られる。・・・(=ウィキペディア)

 

アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(平成31426日法律第16号)

日本の法律。2019年(平成31年)4月19日に成立、同年4月26日公布、同年5月24日施行。この法律の附則2条により、アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律(平成9年法律第52号)は廃止された。

<概要>

この法律の目的は、1条に次のように定められている。

「この法律は、日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族であるアイヌの人々の誇りの源泉であるアイヌの伝統及びアイヌ文化が置かれている状況並びに近年における先住民族をめぐる国際情勢に鑑み、アイヌ施策の推進に関し、基本理念、国等の責務、政府による基本方針の策定、民族共生象徴空間構成施設の管理に関する措置、市町村によるアイヌ施策推進地域計画の作成及びその内閣総理大臣による認定、当該認定を受けたアイヌ施策推進地域計画に基づく事業に対する特別の措置、アイヌ政策推進本部の設置等について定めることにより、アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができ、及びその誇りが尊重される社会の実現を図り、もって全ての国民が相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に資することを目的とする。」

アイヌモシリ(=国立民族学博物館のサイトより)

アイヌ(アイヌ語で人間の意味)は、歴史的に北海道を中心に、サハリン(樺太)南半分やクリール(千島)列島、さらに本州北端におよぶ広大な領域に生活をはぐくんだ狩猟採集民である。アイヌは、自らの生活領域をアイヌモシリ(人間の大地・世界)とよんだ。アイヌにとって人間生活に必要な動植物をあたえてくれる自然環境はカムイ(神)であり、これとの共生をはかる多様な儀礼は、現代的にいえば、まさに生態系の循環をはかるために欠かせない重要な役割をもっていた。初夏から秋にはサケ、マスが大量に河川を遡上し、秋から冬には群れなすエゾシカをたやすく捕獲でき、動物性食品や衣服の材料を確保できた。また初夏にはオオウバユリの根茎から良質のでんぷんを採取できた。寒冷な風土ではあるが、わずかに雑穀栽培もおこなっていた。

19世紀中ごろのアイヌの居住地域

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『アイヌ新法成立、日本の「消えゆく民族」とは

2019.07.28 Sun posted at 10:19 JST

Photo Illustration/ Masataka Ishida, Getty

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(CNN) 日本で生まれ育ったミュージシャンの加納沖(OKI)氏(62)は以前、自分がアイヌ民族であることを知らなかった。

アイヌの男性と離婚した日本人の母が、加納氏の実父がアイヌであることを伝えなかったのだ。加納氏がその事実を知ったのは二十歳の時だった。

北海道大学の研究者ジェフリー・ゲーマン氏によると、研究者や日本の保守政治家らは数十年にわたり、アイヌを「消えゆく民族」と表現してきたという。

しかし、アイヌの血を引きながらアイヌとして数えられていない人の数が数万人に上る可能性がある、とゲーマン氏は指摘する。アイヌに対する差別により、多くのアイヌの人々は何年も前に自分たちの素性を隠し、日本人と同化する道を選んだため、若いアイヌの人々は自分がアイヌであることを知らぬまま生きているという。

今年4月に成立したアイヌ新法には、北海道のアイヌ民族が日本の「先住民族」であると初めて明記された。同法には、アイヌの人々が受け入れられやすい社会作り、アイヌの地域経済の強化、さらにアイヌ文化の可視化のための施策が盛り込まれている。

根無し草

神奈川県で育った加納氏は、ジャマイカのレゲエに魅了された。当時、加納氏は自分がアイヌであることすら知らなかったが、レゲエの歌詞に込められた政治的メッセージに感銘を受けた。

ジャマイカのレゲエミュージシャン、ボブ・マーリーの歌に、祖先を忘れた人々は根無し草と同じようなものといった歌詞がある。加納氏がこの歌詞を知ったのは10代の頃だが、大人になってからの方がより深く歌詞の意味が理解できるという。

1950年ごろ撮影/Three Lions/Hulton Archive/Getty Images

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自分がアイヌと知った加納氏は、アイヌについてより深く学ぶ決意をする。実父に会うために北海道北部に向かった加納氏は、反体制的なスタンスで知られる現地のアイヌコミュニティーにすぐに親近感を抱いた。

 

しかし、加納氏のコミュニティーへの帰属感は長続きしなかった。アイヌの人々の中には、コミュニティーの外で育った加納氏は、日本の統治下で彼らが味わった苦しみを完全に理解することはできないとし、受け入れを拒否する者もいた。

北海道で育ったアイヌの清水裕二氏(78)も露骨な差別を受けた。他の子どもたちから犬と呼ばれ、見た目が違うという理由でいじめを受けたという。

清水氏の両親は、偏見を避けるため、清水氏にアイヌの慣習やアイヌ語を一切教えなかった。清水氏は母から、成功したければアイヌであることを忘れ、日本人のように生きよと言われたという。

 

アイヌモシリ

アイヌやアイヌ語の起源については諸説あるが、依然としてはっきりしない。

アイヌは、北海道とロシア東岸沖の千島列島、樺太を居住圏とする先住民で、熊やオオカミ、さらに水、火、風といった自然の要素に具現化された神を崇拝していた。

15世紀に和人が交易のために、さまざまなアイヌの集団が支配する領土に進出したが、間もなく紛争が勃発した。1457年から1789年にかけて多くの紛争が起こり、1789年のクナシリ・メナシの戦いの後、和人がアイヌを制圧した。

1800年代中頃、日本では近代化とともにナショナリズムが高まり、政府は1899年に北海道旧土人保護法を制定し、アイヌを同化しようとした。

西洋人に食事を与えるアイヌの家族の絵/De Agostini Editorial/Getty Images

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同法に基づき、北海道で日本の義務教育制度が施行され、さらに土地の権利や主張に関するアイヌの従来の制度が撤廃された。その後、アイヌは土地を没収され、政府の一連の計画を通じて日本の慣習の適用を余儀なくされた。

絶滅の危機に瀕した言語の保護を目的とした先住民族と研究者の組織、絶滅危機言語プロジェクト(ELP)によると、現在、アイヌ語を母語とする人は世界でわずか2人しか存在しないという。

また高い貧困率と失業率がアイヌの社会発展を阻んでいる。アイヌの高校や大学の進学率は、北海道の平均を大幅に下回っている。

アイヌの人口も減少しているようだ。2013年の北海道のアイヌ人口は、公式の数字で約1万7000人とされ、北海道の総人口の約2%を占めていた。しかし、2017年の最新の記録では、約1万3000人に減っている。

しかし、アイヌの研究者であるゲーマン氏は、アイヌの人口は最大で政府の調査結果の10倍に上る可能性があると指摘する。多くのアイヌの人々が、自分がアイヌであることを隠したり、自分の祖先を忘れたり、知らない人もいるためだ。

新法で開ける新しい未来?

日本を拠点に活動する先住権の専門家マーク・ジョン・ウィンチェスター氏は、アイヌ新法について、アイヌに対する認知の向上や差別禁止の点で「わずかな前進」と一定の評価をしながらも、アイヌの人々に真の権利を与えるという意味では不十分との見方を示す。先住民保護策の策定において最も重要な柱となるべき自己決定権が同法には反映されていない、とウィンチェスター氏は指摘する。

またウィンチェスター氏とゲーマン氏は、日本政府は法案を起草する際、すべてのアイヌの意見聴取をしなかったと批判する。

一方、アイヌの清水氏は、新法には政府からの謝罪の言葉が欠けているとし、日本人が過去の過ちを認めれば、われわれは前に進めると述べた。

「カムイノミ」と呼ばれる儀式をするアイヌの人々=2008年/Dai Kurokawa/EPA/REX/Shutterstock

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また清水、加納両氏は、新法によってアイヌの人々の教育振興が図られるべきだと訴える。

現在、アイヌの若者には、数校の私立大学でアイヌの言語や文化を学ぶための奨学金や助成金が支給されているが、加納氏は、政府の資金提供の対象をアイヌの伝統保護だけでなく、アイヌの人々の支援にまで拡大すべきと指摘する。

加納氏は、より多くのアイヌの人々が、より高度な教育を受け、弁護士、映画監督、大学教授などの職に就く必要があるとし、さもなければアイヌの文化は常に日本に支配されてしまう、と述べた。

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2018年6月15日 (金)

私の世界・面白い話のネタ―「小鳥も凄い! けど、余りにも衝撃的な“バンクシー(Banksy)”・・!?」

 ネットの“Mail Online”(dailymail.co.uk)から、「木から鳥 何という可愛さ! 手の上に青い小鳥が着地という素晴らしい映像」:“Charming the birds from the trees! Blue tit lands on man's hand in amazing footage”という話です。

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 野生動物の写真家の村人のジムがダービーシャー(Derbyshire)の自宅で撮影したもので、青い小鳥は3年ほど庭の住人で、時々餌を貰いに来るのです。

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 その鳥は、“バンクシー(Banksy)の写真”と名付けられ、「百万に1つの出来事!?」とジムは思っています。

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 ・・で、その“バンクシー(Banksy)”が良く分からないので調べると、ウィキには以下の説明があり、作品が紹介されています。

バンクシー(Banksy, 生年月日未公表)

イギリスのロンドンを中心に活動する覆面芸術家。社会風刺的グラフィティアート、ストリートアートを世界各地にゲリラ的に描くという手法を取る。バンクシー本人は自分のプロフィールを隠そうとしており、本名をはじめとして不明な点が多い。2005年、自作を世界各国の有名美術館の人気のない部屋に無断で展示し、しばらくの間誰にも気づかれないまま展示され続けたことが話題となった。・・・(=ウィキペディア)

無政府主義のネズミ(Anarchist rat

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分離壁に描かれた絵

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少女と爆弾(Girl with a bomb

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ネズミ(The Rat

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 小鳥の写真とは別に、余りにも衝撃的作品にカルチャーショックを受け、「ダービーシャー(Derbyshire)がダービー伯爵、つまり競馬の“ダービー”の由来する人物との関係は・・?」なんて、どうでもよくなりました。

スタンリー家

スタンリー家の祖は、アダム・ド・スタンリー(1125-1200)まで遡れる。彼の出自は長く謎であったが、ダービー伯爵家の本家筋19世紀に廃絶したフートン荘園のスタンリー準男爵家の文書が20世紀に発見されて、1933年にマンチェスターのジョン・ライランズ図書館に収められたことでその出自の研究が進んだ。その結果スタンリー家はオードリー家(14世紀初頭にオードリー男爵(英語版)に叙される家)の分流であることが確認された。結婚持参金としてダービーシャーのスタンリー荘園(Stanleigh )を所持していた人物と結婚してこの姓を用いるようになった。・・・(=ウィキペディア)

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2017年8月 9日 (水)

私の世界・知らない世界―『中国の最も古い交易路の「茶馬古道」・・!?』

ネットのAFPの記事から「中国の最も古い交易路(茶馬古道)に関連する文物を展示する「茶馬古道──八省の文物合同展示」が、中国・河北省博物院(Hebei Museum)で行われ・・」という話ですが、高名なシルクロードは別に中国の最も古い交易路が「茶馬古道」というのを知りませんでした。

合金の宝生如来(201783日撮影)。(c)CNS/テキ羽佳

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漢代の「銅の一角獣」(201783日撮影)。(c)CNS/テキ羽佳

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「南伝木彫釈迦牟尼立像」(201783日撮影)。(c)CNS/テキ羽佳

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展示品を楽しむ市民(201783日撮影)。(c)CNS/テキ羽佳

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展示を写真に収める市民(201783日撮影)。(c)CNS/テキ羽佳

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展示品を見る親子(201783日撮影)。(c)CNS/テキ羽佳

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 中国はマップの航空写真と地図がズレていて煩わしいので場所は省きますが河北省博物院(Hebei Provincial Museum)の外観(ストリートビューの添付写真より)です。

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 「茶馬古道」はウィキにおいても詳しい記述(下記のもの)がなく地図でルートを紹介していません。

茶馬古道(ちゃばこどう)

雲南省で取れた茶(磚茶)をチベットの馬と交換したことから名付けられた交易路である。7世紀の唐や吐蕃の時代にはすでに交易が始められ、20世紀中ごろが流通の絶頂期と言われている。雲南省南部からチベット 、ミャンマー 、ネパール 、インド などへ抜ける幾つかのコースがある。四川省を起点とするコースも含められる。主な交易品は雲南地域より塩、茶、銀製品、食料品、布製品、日用品など。チベット地域より毛織物、薬草、毛皮など。チベットを経由してインド・ネパールで生産されたの物資も雲南に届いたと言う。茶馬古道の要衝といわれる有名な都市にラサ、徳欽、迪慶、麗江、大理、思茅などがある。(=ウィキペディア】

 いろいろ検索して調べてみると以下の個人のサイトに「茶馬古道」が紹介されていました。

http://www.k2.dion.ne.jp/~bako/ChaMaKodo.html

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 ウィキによるシルクロードの地図を見ると、その一部が「茶馬古道」と思えるのですが、「茶馬古道」は中国中央への道ではない、云わば“外れ(の道)”なので一番古くとも高名にならないようです。

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『茶馬古道の文物が一堂に集結 河北省博物院

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88CNS】中国の最も古い交易路(茶馬古道)に関連する文物を展示する「茶馬古道──八省の文物合同展示」が、中国・河北省博物院(Hebei Museum)で行われた。

 甘粛省(Gansu)、内モンゴル自治区(Inner Mongolia Autonomous Region)、広西(Guangxi)チワン族自治区(Guangxi Zhuang Autonomous Region)、四川省(Sichuan)、雲南省(Yunnan)、チベット自治区(Tibet Autonomous Region)、陝西省(Shaanxi)、青海省(Qinghai)から340件の文物が集められた。各地に散らばっている茶器、馬具、石器、青銅器、貨幣、彫刻、シルク製品などたくさんの貴重な文物が並ぶ。(c)CNS/JCM/AFPBB News

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2013年5月27日 (月)

私の世界・知らない世界―『放棄された豪華客船を「芸術作品」に』って?

ネットのCNNのニュースの写真集からです。

「放棄された豪華客船を巨大キャンバスにして、「芸術作品」として再生する取り組みが行われている」という話ですが、「30年前、ウェールズ北部のディー川河口に引き上げられた元クルーズ船デューク・オブ・ランカスター号」とあります。

元豪華客船デューク号 30年前、ウェールズ北部のディー川河口に引き上げられた元クルーズ船デューク・オブ・ランカスター号。現在は、欧州各地から集まった「落書き芸術家」専用の巨大キャンバスになっている

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いつもの「覗きたがり?・・」の虫が湧いてきて、「そんなんやったら、ネットのマップの航空写真で?・・」と探査を始めました。

ところが、ウェールズが広過ぎで、なおかつ“ディー”なんて検索に不向きです。北部の河口ですから、海に面しているはずで、“ディーリバー”としたら大体の場所は検討がつきました。

後で写真集をよく見ると、最後に地図がありました。アホミタイ。

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それでも、かなり苦労しないと見付けるのは大変です。地図の100mスケールでも見分けるのは難しいのです。下図で気が付きますか? ボクは目が右だけしか見えない(糖尿性網膜症)ので、余計にかも知れませんが。

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ただ、それだからか「廃船に“ペンキ絵?”」の写真を見て、かなりムカツキました。船が可哀想です。彼らのペンキ絵は、どう見てもボクには“ウン○”の方がましです。朽ちてゆく船自体が芸術なのに、ただ、“ウン○”以下のもので汚しているのです。

載せるのを止めようと思ったのですが、芸術家気取りの彼らを「笑いもの」として、載せておきます。(全部ではありません)

海賊画家たち ラトヴィア人アーティストKIWIE氏が船首に描いた海賊の絵

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芸者の落書き アイルランド人アーティストFin Dac氏が船尾に描いた作品

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黒い公爵 アーティストの団体DuDug(「黒い公爵」を意味するウェールズ語の言葉遊び)がこのプロジェクトを立ち上げた

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「着岸」後の日々 スクラップ寸前で4人の起業家に救われ、レジャー施設として再生

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全盛期 野外ギャラリーになる前は豪華客船だったデューク・オブ・ランカスター号

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話しは別に:「芸術作品」で“具体”の嶋本昭三さんを思い出しました。「嶋本さんなら、どうしたんやろ?・・」と。ネットで調べてみると、今年の1月に亡くなっておられました。50過ぎの嶋本さんが仁木先生を仁研究所に訪ねてこられた時、会わせて貰って話を聴いたのです。もの凄くユニークな天才で、かつ、ごく普通の人でした。ご冥福をお祈りします。

具体美術協会

戦前から活躍していた前衛画家・吉原治良を中心に1954年に兵庫県芦屋市で結成した団体。「人の真似をするな」という吉原の指導のもと、従来の表現や素材を次々と否定して新しい美術作品を生み出していった。初期のメンバーは、吉原の周辺や芦屋市展に集まっていた若手美術家で、嶋本昭三、山崎つる子、正延正俊、上前智祐、吉原通雄、吉田稔郎、白髪一雄、村上三郎、金山明、田中敦子、元永定正など。機関紙「具体」の発行、芦屋川河畔での野外展、東京(草月会館)および関西での「具体展」、梅田のサンケイホールなど舞台での発表やデパートの屋上でのアドバルーン展など、型破りで新鮮な活動をめざましく展開していった。やがて具体はフランスの批評家ミシェル・タピエによって「アンフォルメルの日本における一例」として広く海外へ紹介され、高く評価されるようになった。(その一方、抽象絵画の団体として紹介されてしまったことで以後の活動は平面作品が中心となり、初期の立体作品や舞台を使ったパフォーマンスなどは行われなくなる。)・・・

嶋本 昭三(1928122日~2013125日)

日本大阪府生まれの芸術家、現代美術家。関西学院大学文学部卒業。京都教育大学名誉教授、宝塚造形芸術大学教授、日本障害者芸術協会会長。兵庫県西宮市にアトリエがある。長男はジャズトランペッターの嶋本高之(しまもと たかし、1964 - )。1954年、戦後日本の現代美術を代表する「具体美術協会」の創立メンバーとなる。「具体」という名の提案者。以降主な具体全展に出品。具体美術展に出展した、瓶詰した絵具を画面上で炸裂させる大砲絵画パフォーマンスや、ヘリコプターよりペイントを落としての絵画制作パフォーマンスなどが有名。1970年代より「メールアート」と称した年間60か国8000のネットワーク交流によって世界の多くのプロジェクトに参加。国内外で精力的に活動を続け高い評価を得ていた。1998年、アメリカMOCA「戦後の世界展」に世界の四大アーチストの一人に選ばれる。現在も多方面で活躍している、兵庫県の新西宮ヨットハーバーで100年かけてのアートを制作中であった。こちらもクレーンから瓶を投げ落とし作品を制作している。このヨットハーバーでの制作理念は広島・長崎に投下された原爆製造に関わった原子物理学者バーン・ポーターが嶋本を訪れ、「ノーベル平和賞候補」に推薦したときから平和のパワーへの信念を強め、それらの理念から制作を始めた。また若手アーティスト育成にも力を入れており、アート・アンアイデンティファイド(AU)を主催していた。イタリアでの活躍が目立ていた事もあり海外における嶋本の評価はかなり高い。2013125日、急性心不全により死去。85歳没。(=ウィキペディア)

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