(真宗大谷派山陽教区「非核非戦法要」 2004年8月3日(火))
小出裕章氏の文から、この前段も紹介したいのですが少し長いで最後のところです。
「ドイツ福音主義協会、マルチン・ニーメラーについて
かつて、ナチス・ドイツは600万人のユダヤ人を殺害しました。ドイツのM・ニーメラーは第1次世界戦争の時にはUボートの艦長として活躍した軍人でした。戦後、彼は福音主義教会の牧師になりましたが、キリスト教の中には「ドイツ・キリスト者」などナチズムに迎合する勢力も生まれました。彼はヒトラーの教会政策に抗して1933年「牧師緊急同盟」を結成して「ドイツ教会闘争」を指導しましたが、1937年7月に捕えられ、ナチス・ドイツ敗戦までダハウの強制収容所につながれていました。
戦後間もなく、ニーメラーは彼の妻とともにダハウの強制収容所を訪れ、その時のことを以下のように書き残しています。
「その建物(死体焼却炉)の前に1本の木が立っていて、そこに白く塗った板がかけてあり、黒い字で何やら書いてありました。この板は、ダハウで生き残り、最後にアメリカ兵によって発見・救出された囚人たちの、いわば最後の挨拶のようなものだったのです。つまり、彼らが、先に死んでいった仲間のために書いた挨拶です。こう読めました。『1933年から1945年までの間に、23万8765名の人々がここで焼かれた』。それを読んだとき、妻が失神しそうになってわたしの腕に中に沈み、ガタガタ震えているのにわたしは気がつきました。わたしは彼女を支えてやらなければなりませんでしたが、同時に冷雨のようなものがわたしの背すじを走るのを覚えました。妻が気分が悪くなったのは、25万人近くという数字を読んだためだと思います。この数字は、わたしにはどうということはなかった。わたしはもう知っていましたから。その時わたしを冷たく戦慄させたものはいくらか別のこと、つまり『1933年から1945年まで』という2つの数字だったのです。・・・1937年の7月1日から1945年の半ばまでは、わたしにはアリバイがあります(注・その間彼は捕えられていた)。しかし、そこには『1933年から』と書いてある。・・・1937年の半ばから、戦争の終わりまでは、お前にはなるほどアリバイがある。だが、お前は問われているのだ。『1933年から37年の7月まで、お前はどこにいたのか?』と。そしてわたしは、この問からもう逃れることはできませんでした。1933年には、わたしは自由な人間だったのです・・・」
「ナチスがコミュニストを弾圧したとき、私はとても不安だった。が、コミュニストではなかったから、何の行動も私は行わなかった。その次、ナチスはソシアリストを弾圧した。私はソシアリストではないので、何の抗議もしなかった。それから、ナチスは学生・新聞・ユダヤ人と順次弾圧の輪を広げて行き、その度に私の不安は増大した。が、それでも私は行動しなかった。ある日、ついにナチスは教会を弾圧して来た。そして私は牧師だった。が、もうその時はすべてがあまりにも遅すぎた。」
「ナチスに責任を押しつけるだけでは十分ではない。教会も自らの罪を告白しなければなりません。もし教会が、本当に信仰に生きるキリスト者から成り立っていたならば、ナチスはあれほどの不正を行うことができたでしょうか」
いま、私は日本の国家からも、また米国からもなんらの拘束も受けていませんし、この会場にお集まりの宗教者の方々もそうだと思います。その私たちは、歴史の審判に耐えられるように今を生きているでしょうか?」
この文を読んで、私は彼が本当に信頼できるラディカルな人だと思いました。
高校のとき聖書研究会の講師で来ている牧師の内村さんが全学連三派を応援するので、「なんでですか?」と聞いたら「全てラディカルでないとあかん、ラディカルは根本的と言う事や!」と教えてくれました。