人との邂逅

2014年4月 2日 (水)

私の世界・知らない世界―祇園甲部のお店、喫茶“花み津”

桂高校の柔道部のOB会が330日にあり、早いもので去年のOB会からもう1年経ってしまったのです。

2次会が、先輩の上野さんのお店、“花み津”でやるということで、驚いたのは、何と場所が祇園甲部にあるのです。

祇園甲部については、丁度41日に、京都市発行“市民しんぶん”の1面に「京・花街の文化」で紹介されています。

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マップで確認すると、まだ、“お茶屋上野”となっていました。

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1年上の三浦先輩が車で連れてくれたおかげで2次会に出られ、1年振りに先輩諸氏(2年上)に会いました。「去年に比べ、ずい分元気になったように? 見える・・」と言われ、握手攻めがうれしかったのです。

“花み津”は、お家のお茶屋を外見は変えずに中だけ改装した、以前は女優? みたいな、美人の奥さんと上野先輩、二人の可愛い喫茶店です。

お店の写真(Miura撮影)

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祇園甲部

京都市東山区にある京都で最大の花街。寛永年間(1624 - 1645年)に祇園社(八坂神社)の門前で営業された水茶屋がこの花街の始まりで、京都所司代板倉重宗によって茶立ち女を置くことが許可され、門前の茶屋町を「祇園町」と称するようになった。寛文年間になると四条河原町に芝居小屋が建ち、四条通りと大和通りにも茶屋が開かれるようになり、弁財天町・二十一軒町・中之町・山端町・宮川町で、「祇園外六町」と称した。享保17年(1732年)、正式に茶屋渡世の営業許可が下りると元吉町・橋本町・林下町・末吉町・清本町・富永町の「祇園内六町」が開かれ、さらに繁栄した。この際に、団子をモチーフにした紋章が作られた。この紋章は現在も祇園甲部と祇園東の紋章として使われている。江戸末期にはお茶屋が500軒、芸妓、舞妓、娼妓合わせて1000人以上いたという。

しかし、東京奠都によって繁栄に陰りが差した祇園を立て直すために明治5年(1872年)に一力亭の九代目当主杉浦治郎右衛門は大参事槇村正直や初代京都府知事長谷信篤の協力を得ながら「祇園甲部歌舞会」を設立し、芸による職業女性としての自立と地位向上をめざした。また、京都博覧会の付け博覧会として都をどりを企画し創設した。(詳細は「都をどり」の項を参照のこと)第一回の都をどりの振り付けを担当したのが三世井上八千代であり、これ以降の祇園甲部の舞いは井上流に限るとする取り決めがなされ、現在まで祇園の舞は井上流一筋となっている。(それ以前は篠塚流の存在も大きかった)。この時期、祇園は文人や政治家等に愛され大いに繁栄した。当時、「膳所裏」と呼ばれていた一部の地域は祇園乙部、後の祇園東(乙部の詳細は「祇園東」の項を参照のこと)として分離し、現代に至る。

大正元年(1912年)、貸座敷取締規制改正により四条通両側、縄手通(大和大路通)におけるお茶屋営業が禁止され、四条通に面していた一力亭は入口を花見小路側に移設した。第二次世界大戦が始まると白川沿いの北側は建物疎開で破壊された(その中に磯田多佳が経営していた「大友(だいとも)」が含まれていた)。この地域は現在は遊歩道となっている。終戦後(1945 - )、祇園甲部はすぐに営業を再開、その5年後に「都をどり」が南座で再開(後に本拠地である歌舞練場に戻り、今に至る)。

昭和30年代から40年代にかけてお茶屋150軒、芸妓、舞妓合わせて600人を数えたが、時代の流れと共に花街の規模は縮小していった。古い街並みはビルに変わり、加えてバーやスナック、性風俗店の進出により環境が悪化する。新橋地区(元吉町)の住民はこの乱開発に危惧を抱き、この地域の町並み保存を行政に働きかけた。この結果、新橋地区は修景地区に指定され、1976年に重要伝統的建造物群保存地区として選定される。一方、祇園町南側(とくに花見小路周辺)は女紅場学園所有であるために乱開発は逃れ、歴史的風景特別修景地区に指定された。

この町のシンボルというべき舞妓も一時は20人以下へと落ち込んでいたが、近年徐々に回復し、現在は30人弱にまで増えていると言われる。(=ウィキペディア)

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2013年4月23日 (火)

私の世界・面白い話のネタ―桂高校柔道部と「蕎麦がき」(続き02)

OB会のあと、三浦先輩が「昼飯でも食べへんか?・・」と連絡してきました。「少し、ドライブするけどかまへんやろ?・・」と言うので、「多分あそこや!・・」と察しが付きました。

思った通り、「愛宕山」の方に車は向かいました。

三浦先輩よりもう一つ上の吉田さんが「越畑で蕎麦屋さんをしている」というのは、OB会で話題になっていたのです。何でも、“越畑フレンドパーク”とかいうのです。

清滝から愛宕山を抜けて越畑は、半端なく曲がりくねった山道で、途中でダンプなんかに会おうものなら悲惨なことになりそうな道でした。

何とか無事に抜けると、少し明るい集落などがあって道も良くなりました。

着いてみると、立派な民家風の「まつばら」という蕎麦屋さんで、中に入って先輩を呼んでもらって、メニューの「天ぷらそば」と「蕎麦がき」を頼みました。

吉田先輩がお家から来られて、話をしていると三浦さんは何を思ったのか、「天ぷらそば」だけと言っていたのに、「蕎麦がきぜんざい」を追加注文してしまうのです。

「蕎麦がきぜんざい」が出てくると、「半分は、お前が食べてくれ!・・」というのです。先輩の言うことは絶対で、血糖値が上がって死んでも食べねばならないのです。と言うか、ほんとは死んでも食べたかった。

下がその「天ぷらそば」と「蕎麦がきぜんざい」です。「天ぷらそば」もお蕎麦が100%で凄く美味しかったのですが、「蕎麦がきぜんざい」はボリュウムがあって絶品で、今まで食べたことのない美味しさでした。

「まつばら」の前の“しだれ桜”

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「天ぷらそば」

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「蕎麦がきぜんざい」

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話しは別に:高校時代の吉田先輩の得意技は、プロレスのバックドロップに似た「裏投げ」という技です。相手の内股などの技を受け、跳ね返す技ですから、なにしろ強靭な足腰と腕力が必要なのです。越畑に行って、段々畑のある急峻な地形を見て、「なるほど!・・」と納得がいったのです。子供の頃からこんな山河を駆け回って遊んだり、家業の農家を手伝っていたら、強靭な足腰や腕力も納得です。

話を聞いて驚いたのですが、吉田先輩は越畑から桂高校まで、片道2時間掛けて通っていたのだそうです。それで、柔道の練習を毎日して皆勤賞ものですから、かなりの柔道オタク?だったのです。因みに私は家まで自転車で5分でした。

吉田先輩

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京都府のHPに“越畑フレンドパークまつばら”があります。

アクセスは京都縦貫道「八木東IC」から国道477号線がいいようです。

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2013年4月 2日 (火)

私の世界・面白い話のネタ―桂高校柔道部の歌

日曜日に柔道部のOB会に久しぶりに行きました。

生活も、体もボロボロ?で元気と思われる先輩たちに会うのは、若干辛いものがあったのですが、でも懐かしくて会いたかったのです。

何人かの先輩の手を握って、昔を思い出すと涙が出そうでした。やっぱり、みんな、握手した手はごつくて温かかった。

酷い糖尿病性神経症の所為で、細くて冷たいボクの手には、本当にごつくて、温かいのです。

会が終って帰りのタクシーの中で話をしていると、桂高校の柔道部の歌を先輩たちは覚えていないというのです。

1番はいいのだけれど2番が途中までで、どうしても出てこないのだそうです。ボクが勝ったと思ったのはこの歌のことだけでした。それも3番まで覚えています。

恥ずかしいのですが、何でも勝ち負けは、中学の頃から厳しい試合ばかりをしている性(さが)のようなものです。

<桂高校柔道部の歌>(訂正更新しました 13/04/03

柔らの道を一筋に 求めて過ぎし幾歳せぞ

闘志に生きんいざ友よ 我等桂の柔道

桂の流れ水清く 心一つに合わせつつ

燃ゆる瞳に見上げれば 夕日に淡しお塩山

荒ぶ嵐は猛くとも 錬磨の腕(かいな)君見ずや

滾(たぎる)る血潮命とて 我が雄たけびと歌いなん

ああ紅顔の男(おのこ)らが 競(きそ)わん道ははるけくも

闘志に生きんいざ友よ 我等桂の柔道部

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2012年1月11日 (水)

私の世界・人との出会い―堀部君は強くて格好良かった③

次の府下大会は宮津市でありました。彼とは決勝戦で当たったのですが今度は僕も上がることは無くて、投げられないようにがんばりました。

寝技で勝つためには相手をこかすか1本を取られないように投げられ寝技に持ち込む必要があります。堀部君はお父さんがそうなのか「体捌きで相手を投げる」柔道で決して「背負い投げ」のような相手にもぐりこんで背中をくっつけて投げるようなことをしないのです。

つまり、投げようとするのをがまんして抱きついて寝技に持ち込むことが出来ないし、少しだけこかされて寝技は無理なのです。

悲しいことに僕には彼をこかす業がありません。前の日に一晩中考えて、最後の必殺技「帯をもって大内掛け」を編み出したのですが試合で掛けようとした瞬間、

「あっ、あかん!・・」

と思いました。彼はビクともしなかったのです。

僕も投げられないように頑張ったので試合の決着が付きませんでした。ラッキーなことに当時は僅差の判定が無く、「技あり以上」なのです。

延長を何回かして、時間が経ってどちらもへとへとになって、よけいに技が決まらず、審判も困ってしまいました。競技委員の先生方は随分長く相談していたのですが、結局両者1位の「引き分け」となったのです。驚くことに後から立派な「1位の盾」がお家に送られてきました。堀部君も同じものを貰っているはずです。

当時は悠長と言うか郡部の柔道連盟なので「お金」があったのかも知れません。市の大会ではメダルがせいぜいで大抵表彰状1枚なのです。

堀部君には謝っておきたいことがあるのです。

2年の試合が桂中学の講堂であったとき個人戦で当たったのです。

実力伯仲して、また決着が付きかねたときの場外近くで、

「分かれるか?・・」

となったときです。言葉には出さなかったのですが互いに目と目でそんな会話をしたのです。

堀部君が手の力を緩めて道着をはなそうとした瞬間、僕は卑怯にも、

「今だ!・・」

と言う悪魔のささやきに負けてしまい、「抱え投げ(浮き腰)」を掛けてしまったのです。

試合が終わって、謝ろうと思って堀部君のところに行くとお父さんに叱られているのです。

『だって、金澤君が分かれよ?・・って言ったモン!』

『審判が「分かれ」と言ってないのに力を抜く奴があるか、お前が悪いのや!』

それを聞いてしまって、謝ることが出来ませんでした。

高校生になって、彼が自殺したことを聞きました。

 大阪の柔道の強い有名校に進学して、ガンバッテいると思ったのに胸に大きな穴が空いたままなのです。

 堀部君ゴメンね!

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2012年1月10日 (火)

私の世界・人との出会い―堀部君は強くて格好良かった②

堀部君はお父さんの道場で歩き始めた頃から柔道をしていたそうです。体は僕が大人のような体格なので、それより小さかったのですが筋肉質の均整の取れた格好良い柔道少年でした。

新人戦は決勝で当たりましたが、組む間もなく「大外落とし?」で秒殺されました。大体試合になっていなかったのは、僕が上がってしまって組むとき顔も良く見れない状態だったのです。

負けてしまってあれほど「絶対負けるな、寝技でやっつけろ!」と言っていた西先生の前へ行くと「まあ、よくやった・・」と笑っていました。それまで、負けると絶対怒られると覚悟していたので拍子抜けしました。

先生も僕が堀部君に勝つとは思っていなかったようです。

決勝に行くまで、立ち技でこかされては寝技で逆転という試合だったのですがそれが先生の気に入ったのかも知れません。

後でライバルになる藤田君には準決勝で当たったのですが「体落し」で技ありを取って「袈裟固め」をしてきました。西先生は「袈裟固め」をすると怒る禁じ手の寝技で「崩れ袈裟」にしなければなりません。簡単にひっくり返せて逆に押さえ込めるのです。先生や3年のレギュラーの先輩が押さえても「袈裟固め」なら逆転出来ました。当然、藤田君の「袈裟固め」は返して逆転することが出来て「崩れ袈裟」で1本でした。

当時の中学柔道はまだ戦争の遺産と言うかアメリカ進駐軍が格闘技の全国大会を許していませんでした。そんな状況で桂中学の柔道部は近畿大会の常連だったのです。

桂中の柔道部は休みが正月だけで授業の前の朝練と授業後の午後練をしていました。先生も若い頃は竹刀を持って「半端な練習をすると叩いた」という噂がありました。竹刀は本当に道場の隅に置いてあり、先生は時々威嚇行動のように練習前の準備運動に振っていました。

別に練習が嫌いではなかったのですが台風のシーズンが来ると、台風を心待ちにして学校が休みで「練習休み?」を期待している自分がいました。

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2012年1月 9日 (月)

私の世界・人との出会い―堀部君は強くて格好良かった①

堀部君を最初に見た衝撃は今でも忘れられません。柔道の1年の新人戦のとき個人戦に出るために先輩について行って団体戦を見たときのことです。

「えっ、まさかあの子とやるの?・・」

彼は3年生に混じってレギュラーで団体戦を戦っていたのです。

それも使う業が華麗と言うか、上級生を相手に中学1年にはとても出来そうにない、「膝車」や「大外落とし」で1本を取っていました。その技は強い3年生でも簡単に投げられそうな凄いものです。

西先生は試合の少し前から「堀部という強い子が相手だから、寝技でやっつけろ、決してひるんで負けてはいけない!」、「寝技なら、お前が絶対勝つ!」と言っていたのです。

中学に入って柔道部員になると、肥満児の僕に先生は目をつけたのか、朝練も午後の練習も最初に私を呼んで15分~30分寝技をする毎日でした。始めの内は初老にしては重くてものすごく力のある先生に、身動き一つ出来なくて気絶しそうになるのに「動け」、「頑張って起きろ!」と言うのです。

不思議なことに2ヶ月ほど寝技ばかりしていると、少しづつ動けるようになりました。3ヶ月近くになると先生がどんなに押さえ込んでも逃げるようになります。そして、僕の方が先生を寝技で攻めるようになると呼ばれなくなりました。いわゆる寝技を「卒業」したのです。

先生はその頃になると先輩たちと試合をさせるのです。寝技しか知らないのですが練習は立ち技もして、体の使い方が寝技と同じなのか、「力が強くなっていて」上級生にも簡単に投げられなくなっていました。

そして、「堀部に負けるな」と聞かされたのです。

僕が困ったのは、物語に出てくる柔術の悪役が絞め技や関節技などの寝技を使い、正義の味方はかっこいい投げ技を使います。堀部君が正義の味方で僕が「悪役のデブッちょ」で、勝てるわけが無いのです。

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2011年11月21日 (月)

私の世界・人との邂逅―前田のマスター⑤・マスターの『吾亦紅:われもこう』

さっきラジオで「吾亦紅:われもこう」を聞いてマスターを思い出しました。

http://www.youtube.com/watch?v=aYHjANGfXyY

『亡くなる前によく歌っていたね!

良く聞くと本当に悲しい歌だけどマスターは酔うと好んで歌っていたのを思い出します。

「われもこう」て、「われもこうありたい」とはかない思いをこめて名づけられたというのが面白いけど、マスターもそう思って歌ってたんやろか?

「われもこう」って少し変な格好の花やね。花言葉は「移り行く日々」・「愛慕」・「変化」なんだって、マスターは知っていた?

「あなたに あなたに 謝りたくて・・」というところで妙に感情移入していた気がするけれど、僕もその気持ちが分かるのが変に悲しいです。

「俺、死ぬまで、あなたの子供」の最後ところ、マスターは妙に力を入れていのだけどご両親のことはお互い余り知らない大人の付き合いで話すのは子供のことが多かった。

中学生の子供が悪さをしてしょげていると「子供は中学くらいのときは思い切り悪さする方がいいのや、大人になってしゃんとなるもんや!・・」と慰めてくれたのを思い出します。』

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2011年10月21日 (金)

私の世界・人との出会い―「なべさん」はすごかった④

なべさんのすごいところの1つにプログラム能力があります。500ステップ以上のマルチファイルのマッチングをコボルで組んだプログラムをコーディングからパンチまで1人でして1発で通す(OKになる)のです。

よくパンチしたカードディック(プログラムのカードセット)を持って来て、

「これ一発で通るかどうか賭けへんか?・・」

と言ってきました。

なべさんの実力を知っている僕は絶対に乗りません。大橋さんは負けてもどうせ飲みに行って奢るだけですから喜んで負けていました。

なべさんはマージャンとプログラムには強いのですが南村さん以外にもう1つ弱点がありました。どういう分けか女性に弱いというか「惚れっぽく」て惚れてしまうとダメになります。あれだけ冷徹なマージャンを打つのに女性には中学生以下の純情少年なのです。

別に女性を知らないわけではなくて、

「このあいだ女の子を呼んだら、気に入られて『今度タダで遊ぼっ?』って言われた!・・」

と言うような話を平気でします。

あるときなべさんがわざわざ、

「休みの日に僕の家に来てマージャンせえへんか?・・」

と誘ってきました。

次の日曜日に少し遠くにあるなべさんの実家に大橋さんとN君と観光がてら出かけました。

その日はかなり緊迫したマージャンで大橋さんも本気のようです。なべさんも真剣なのは顔つきを見ると分かりました。何時もとは全然違っていたのです。

何回か場が変わったときの終盤戦に突然なべさんが叫びました。

「あぁー、やったぁー!・・」

「へぇー、どうしたの?・・」

「四暗刻の単騎つもったんや!・・」

「えっ、それってダブル役満やんか・・」

「もうこれで死んでもええねん、思い残すこと無いわ!・・」

最後にちょっと変な言葉を言って、いつまでも記憶に残りました。

私が辞めた後、少しするとなべさんも辞めるという話が伝わってきました。

何か「いやな感じ?」がして話をしようとなべさんに連絡を取ろうとしたのですが願いは叶いませんでした。

辞めたその日に国道で大型トラックにぶち当たってしまったのです

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私の世界・人との出会い―「なべさん」はすごかった③

運命は不思議なものでなべさんとは職場が違ったのですがひょんなことからなべさんはシステム開発部に入ってきました。確か銀行のシステム部に就職したのですが何故辞めて来たのかは分かりません。推測できるのは、コンピュータ学校から銀行関連の就職も異例だし、辞めてすぐシステムに来れるというのもかなり有力な人間関係があるようです。

とにかく同じ職場になったのでまたマージャンを始めました。

なべさんは強いのでなるべく強い人を集めたほうが面白いと思ったのが失敗でした。そのときの大橋さんはかなりの打ち手で3人はいつもセットです。あと1人を誰にするかが問題で当時は同じ職場に強い人は居らず、別の事務所の藤原さんやアルバイト出に来ていたN君を誘いました。藤原さんは20人の事務所で出入りの業者も含めて40人ほどのマージャン大会をやると優勝するほどの人です。Nくんはアルバイトで来ていたのですがハングリーなガッツがありました。

すると残念なことに殆ど僕が勝てないのです。浮くことはあってもなべさんに勝つことが至難の業でした。

そこで作戦を考えたのです。わざと弱い同じ職場の人を誘ったのです。

特に南村さんがなべさんは苦手でした。南村さんは天才的な頭脳の持ち主なのですが典型的な「わが道を行く」と言うタイプです。もっと言うと全く他人のことを気にしないでマージャンをするのです。それで「リーチ」といっても気が付かずに平気で危険牌を出します。そしてその念力の強さは半端ではありません。両面待ちなのに後一枚しかないという牌(普通の人は状況を考えます)を何も考えずに「リーチ」して、つもってしまうのです。

冷静ななべさんもそんな理不尽な南村さんの「上がり!」はかなり堪えるようで勘が狂ってしまうのです。

そんなときは見え見えの待ちで誰もしないような時でも、そっと「リーチ!」すると南村さんは牌を振り込んでくれるのです。全く場を見ていないのです。

「モォー、南村さん・・ちゃんと見ないとあかんやんかぁー!?・・」

となべさんは怒るのでした。

この作戦は見事に当って、なべさんに勝つことが出来るよう(たま?)になりました。

それとなぜか不思議なのですが職場マージャンをやるようになると大橋さんも見事に弱くなったのです。お金を掛けていることを忘れて手作りばかりを楽しむのです。職場の仲間、それも弱い人に本気を出せなかったのかも知れません。僕はその2人の間隙を突いて一番給料の少ない分をマージャンで補わせてもらう日々でした。

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私の世界・人との出会い―「なべさん」はすごかった②

待ちに待った夏休みが来て見ると当時の私にとって膨大な借金が残っていました。仕方がないのでアルバイトをフルにこなして返すことにしました。

コンピュータ学校は勤めている人用に夜間も授業をするクラスが夏休みでもあったのでその助手をアルバイトに出来ないか聞いてみたらOKということで昼は植木屋さんのアルバイトをやり夜は学校の助手をしました。

1ヵ月半の夏休みのアルバイト料は殆どマージャンの負け、借金の返済に消えてしまいました。

お金を返して清々していると「なべさん」がマージャンを誘ってきました。

マージャンはこれでお終いと思っていたので、

「一度だけ付き合うけれど懲りたし、もうこれからは誘わんといてね?・・」

と言いながら牌を囲みました。

不思議なことにその日は今まで付いてなかった「つき?」が全部来たような、貧乏神がいなくなって幸運の神さんが取り付いたようになったのです。今までの負けを取り返して余りあるような一人勝ちです。マージャンは一度は危ない目(流れ)が来るものですがそれがありませんでした。

みんなが負けて一人勝ちしているとたいてい止めさしてくれないものですが、その日は「次元が違っうわ?・・」とみんなは止めてしまいました。

なべさんいわく、

「やっと卒業やなあ?・・」

「え、なんのこと?・・」

「これからは、もう負けないマージャンが打てると思うよ!なんせマージャンの神さんが一度は付いたんやから?・・」

「神さんは一度だけでいいねん、後は独り立ちできるもの!・・」

なべさんは優しく言ってくれたのです。

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