人との邂逅

2021年10月24日 (日)

私の世界ー人との出会い・「システム科学の先達の人々」(リメイク)

<その①八杉理事長>

私の本業の1つはコンピュータ・プログラムの作成です。それは、40年以上も前に京都コンピュータ・センターというコンピュータ・プログラムの専門学校に入って学んだことに始まります。そのまま京都コンピュータ・センターのシステム開発部に就職したことが契機となりました。

そこに理事長の八杉正文さんが居ました。八杉さんは京都市の助役や交通局長をやった後、自由民主党・民社党が推薦して市長選に出馬します。社会党・共産党の推す富井市長と戦いますが、当時の京都は蜷川虎三府知事が居て、革新色が強く、夢―破れてしまったのです。

その後、京都産業大学法学部の行政学の教授となります。

大学を退官してから京都の政・経済界の協力を得て、京都コンピュータ・センターを作るのです。情報工学の単科大学にしたいと話していました。

印象に残っているのは、理事長室にルノワールの絵画らしきもの?が飾ってあるのですが、若い研究員を呼んで、

「私は君たちのような芸術品??の将来に賭けているんだ。それに比べるとこんな絵画〔ルノワールの絵?のこと〕なんか1つも惜しくない。いつでも売って君たちの為に使おうと思っているんだ。」

と話してくれました。

入社した年のクリスマスの前の日、八杉さんが僕と大橋さんを理事長室に呼ぶのです。

「何を、怒られるのやろか?・・」

とビビッて理事長室に入ると、ニコニコした八杉さんが居ました。

「今日は、クリスマスイブだよ!君たちもたまには祇園で飲んで来なさい。」

とパーティー券を二枚差し出すのです。

「その代わり、券だけにしなさいよ。絶対お代わりしてはいけません。祇園のクラブはものすごく高いお金を請求されますから!」

と言ってくれました。

八杉さんは、当時、泉さんという通産上がりのおじいさんに、社団法人の申請を依頼していました。多分、それが上手く行きそうなので嬉しくて、僕らにもそのおすそ分けをしてくれたようなのです。

ただ残念なことに、その夜、交通事故で亡くなられたのを次の日に知りました。なんとも無残というか、「そんな、僕らのことを気遣うような、珍しいことをするからや?・・」と泣きました。

<その②泉さん>

泉さんは役所上がりのおじいさんで、社団法人化の申請事務をするために事務所に来ていた人です。詳しい経歴は聞けなかったので、通産省のOBくらいにしか思っていませんでした。

あるとき、当時の世間知らずの私でも大物と知っている、稲葉秀三さん本人が事務所に尋ねて来る事があって驚いたのです。もっと驚いたのは、稲葉さんと泉さんが親しげに話していて、心を許した部下か同僚のような関係に見えたのです。つまり、泉さんも「一廉の大物」だったのです。

 

泉さんはいつもパイプ煙草をくゆらせていました。申請事務をする傍ら、孫が遊んでいるのを眺めるような目で、私たちの仕事ぶりを眺めていました。その煙草の煙の匂いは、甘酸っぱくて気持ち良いものです。

「そうだ、僕もパイプやろ!?・・」

と泉さんを真似てパイプ煙草を始めたのです。

やってみると意外な効果に気が付くのです。「暇が持余せる?・・」のです。システム開発部の仕事は、役所の仕事が主ですから期末の4月前後が死ぬほ

どいそがしいのですが、夏と秋は暇なのです。

システム開発部以外の人は、教育(コンピュータ学校)の仕事があるので年中授業とその準備?を何かとしていますが、私と大橋さんはその時期暇?なのです。

パイプ煙草を吸うのは、いろいろ面倒な手続きと作業を要します。まずパイプに煙草を詰め、この詰めるのも技術がいります。おもむろに火を着けます。上手く吸わないと火が消えるのでたえず金具?(通は熱くても指先で「チョンチョン」する)で押し込みながら、火をまた着けるのです。吸い終わると、掃除が待っています。掃除もいろいろ道具を使ってやるのです。

この作業で30分は持つのです。

好都合なのは、泉さんが「スパ、スパ・・」やっているものですから、上司も僕を怒れないのです。

まじめな話し、暇なときはずいぶん勉強のために工学関連やサイバネティックスなどの本を読みました。

その様子を見て泉さんはいつも、

「君たちはいいなあ、一生懸命になれることがあって?・・」

と羨ましそうに話すのです。

結局、今の社団法人と私があるのは、泉さんのおかげだと思うのです。

話しは別に:暇なときの特技として、大橋さんは目を開けて眠りました。すごいことに、前にある本のページを時々めくるのです。というか、目が細くてメガネを掛けていて、いつもおとなしく騒がないので、寝ているか起きているか分からないのです。ひょっとすると、僕のパイプ煙草と同じく大橋さんの作戦?かもしれません。

それとは関係ありませんが、私は煙草の煙を肺に入れることが出来ないので、吹かすだけです。パイプ煙草もそういうものだそうで、煙を肺に入れないのだそうです。煙草の初体験で肺に入れようとしたら、むせて、痛くて諦めてしまいました。煙草の煙と肺がんの関係が問題になったとき、自分は肺に入れていないのだから大丈夫と思っていたら、この間イヤなことを耳にしました。副流煙は同じように危険なのだそうです。自分の煙を受動喫煙すっるのはあほな話です。

<その③平澤興会長>

平澤興先生は社団法人システム科学研究所の初代会長です。京都大学の総長だった人ですから、僕たち研究員は研究所の行事や忘年会で年に数回お会いする程度です。

一度、忘年会で酔っ払って、先生の頭を「ぺんぺん」した人が居たのですが、先生はニコニコして平気で愉快に笑っていました。

専門は脳神経解剖学だそうですが、僕たち若い研究員に話をするといつも同じ話をします。

「人間の脳細胞は40億個ほどありますが毎日何十万と死んでいきます。そして、脳は使わないとどんどん劣化してダメになるのです。あなたたち若い人は脳をドンドン使ってください。脳はいくらでも成長して輝かしい未来を約束してくれるのです。」

先生は確か40億個と言ったような記憶があるのですが、言われたときに、

「あれっ、お年の先生はもうほとんど脳細胞があらへんやん?・・」

と反射的に思える数字でした。当時、反射的な概数の計算は得意だったのです。

注)計算例50万×365日×60年≒110億で40億なら倍以上

今は神経細胞は約140億個で、それは脳細胞の10%程度、グリア細胞が他を占めていて、全体では1400億以上となることを知っています。

先生の脳細胞は十分あったのです。

<その④佐々木先生>

当時の佐々木綱先生は京都大学の交通工学の教授でした。

私がシステム科学を辞めた後、委員会でよくご一緒しました。と言っても、私は作業委託を受けているコンサルタントの下請けと言う立場です。

始めてお会いしたときは、「佐々木先生は怖い人?」と言う話をする人が居て緊張してお会いしたのです。会って見ると、話と違って非常ににこやかで気さくな先生で「不安?」は吹っ飛びました。

何回か委員会でお会いしていると、私がまだ25歳過ぎで若いからか、大学院の学生か助手と思っているような所が何故かありました。

「金澤君、この間、頼んでおいた計算、うまくいきましたか?・・」

と言う言い方が、学生にレポートの課題を出してその結果を聞くニュアンスそのものなのです。

「実はプログラムに問題があって、まだ答えが出ていません?・・」

と言っても、

「もう少し工夫して、トライしてみなさい、時間はあるのですから!・・」

と言ってくれそうな雰囲気なのです。

委員の先生方を集めておいて「答えがまだ」はない話ですから、そんなことにはならないようにするのですが。

大阪湾岸道路に関する委員会で、先生の京都大学のコンピュータを借りて交通配分の評価計算をしたときの話です。

結果は一応前もって出ていたので、東京へ出張して帰ってからまとめる予定で行ったのですが、東京の作業が徹夜続きで帰りの新幹線だけが睡眠時間という状態でした。夜遅くに事務所に帰って、結果をレポートにまとめるのは不可能と判断したので、一枚の総括表にまとめるだけで精一杯でした。それでも、明け方近くまで掛かったのです。

そんな状態で委員会に出たとき、佐々木先生は瞬時に分かったようです。

「金澤君、結果出たの?・・」

「なに、表にまとめてあるの?・・」

「ほう、十分、十分、分かりやすく上手く出来ているよ・・」

と言ってくれました。前回の委員会では、結果を出して分析レポートを作ることになっていたのです。

話しは別に:私は大学教授がそんなに偉いとは知らなかったのですが、委員会なるものに出ると、着席順で見事に分かります。序列は大学教授、その助手、役所の部長、課長、係長、担当者、受注側コンサルの部長、課長、担当者、そして下請けの私となります。気が遠くなるほど、下等なのです。

ただ、ラッキーなことに、教授の口の利き方1つで私の序列が見事に逆転します。我々下請けが尊敬できる良い先生は、作業者を立てる意味で、まず一番に「金澤さん、どう思いますか?」と聞いてくれるのです。

すると、他の全員が私の序列を教授の次にします。ただし、委員会の中だけの話ですが・・。

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2021年10月22日 (金)

私の世界ー人との出会い・怪人仁木哲(リメイク)

<その①>

原発事故のことを考えているとき、ふと「仁木哲」を思い出して、ネットで検索してみたら意外なことに有益な情報は以下の2つでした。

○「小松左京自伝 実存をもとめて」(日本経済新聞社出版社)より

「・・・もう一人世話になったのが、旧制高校時代の寮長だった仁木哲?という人で、この人が『放送朝日』という朝日放送のPR雑誌の編集長をしていたので、この雑誌に紀行文明論「エリアを行く」を連載(単行本は『地図の思想』『探検の思想』)。この雑誌は、梅棹忠夫や加藤秀俊も執筆している雑誌で、その関係で彼らと交流ができたそう。」

○加藤秀俊氏のブログの「PR誌の人びと」より

「そういう大阪ジャーナリズムのなかでまことに異色というべきものは月刊誌『放送朝日』であった。これはその誌名がしめすように朝日放送のPR雑誌であって、その編集長は仁木哲さん。この人物は美談、奇談、逸話にはこと欠かぬ人で、わたしは『放送朝日』の発刊(一九五五年六月)とほぼ同時に、仁木さんにひきずりこまれて、この雑誌に寄稿することになった。それもほぼ常連的に執筆、というひきずりこまれようである。」

仁木哲さんとの出会いは、電力関係の広報の仕事で住民アンケートの分析を下請けしたときに広報コンセプトやレポートの作成を手伝ってもらい、一緒に仕事をしたのがきっかけでした。もう30年以上も前の話です。

ギャラは元受のAAPという会社が払っているので私が雇っていたのではないのでが、気むらというか、天才と言うか、原稿をなかなか書いてくれないのですがひとたび気が向くと半日もしないで凄いレポートを作ってしまうのです。

東京を逃げ出して最初はPHPの嘱託で、京都駅前のビルの一室に机があって、アルバイトのつもりで原稿を請け負っていたのではないかと思うのです。

一緒にいて電話が掛かってくるといつも、

「君が出てくれへんか」

というので、出てみるとたいてい東京からの借金の返済の督促でした。

<その②>

仁木哲さんは190cm以上の長身で、江戸時代に外国の異人を天狗の様に描いた絵がありますが、まさしく彼の姿そのものなのです。容貌怪異とは彼のためにあるような言葉ですが、笑うとチャーミングでそのギャップが人を放さない魅力的なところとなっているのです。

①で述べたように『放送朝日』という朝日放送のPR雑誌の編集長をした後、東京に出てトヨタ財団の現代文化研究所の初代所長になります。ちょうど大阪万博の前で、トヨタ館やその他プロジェクトのプロディユースをした頃が一番活躍した時だと思います。その頃の話をすると、田中角栄や黒川紀章などの著名人の名がぽんぽんと出てきます。

その後、某有名企業のPR雑誌の編集を頼まれて、

「会長の金を64億円?使い切ってしまった。」

とすごいことを言うのです。

現文研の頃から、ストレスもあってウィスキーをボトルで飲みながら仕事をしていたようで、お酒が原因で辞めたのか、まだ禁制品でなかったLSDもずいぶんやったそうです。

LSDはあかんよ、肝臓に来る。」

はいつもの彼の台詞でした

<その③>

知り合ってからしばらくして、仁木さんは株式会社仁研究所を立ち上げます。

「君も出資してくれへんか?」

と仁木さんは言うので10万だけ出資したら、発起人の取締役にするのです。

仁研究所は錦市場で有名な卵屋さんの持ちビルの二階でした。最初の取締役会はすき焼きの「かのこ」でしたが、集まってビックリしたのは、末石先生が参加者だったのです。仁木さんは三高のとき寮長だったそうで、末石先生も仁木さんとその頃の同級生だったのです。私が若い頃、始めて淀川流域総合計画に参加して汚濁負荷量の計算をやったとき、末石先生の指導を受けた人の指導を受けた人の指導を受けた(間違いなく3回以上続く)ので、私には神様のような存在なのです。

研究所には多彩な人が集まりました。私の事務所は仁木研究所へ5分とかからない近くだったので、特別な人が来るとよく電話がかかってきて呼び出されるのです。

研究所に来る人は特徴がありました。世間で言う超一流の人ではありませんでしたが、世が世であれば超一流になれた、もしくはなれそうな人達が沢山訪ねて来ました。

そして、いろいろ話をしてから仁木さんは最後にかならず、

「誰々(超一流の人)はあかん、彼より、あんたのほうがなんぼか優れている。世間があほなんや。」

と言うのです。

 来客は得々として帰っていくのでした

<その④>

仁木研究所の仕事は、知り合いの企業の原稿が主なはずなのですが先生は大した収入にならないので余り気が乗らないのか、ほとんど何もしないで、お客さんが来る以外は私を呼んでパチンコの話や世間話でした。

(私は当時、仁木さんを「仁木先生」と呼んでいたので以下、先生と書きます。)

ただ変なのは、パチンコの話はほとんど奥さんがして、先生は時々相槌を打つだけです。先生は東京のときは、そうではなかったと思うのですが夫唱婦随と言うかいつも奥さんが付いて先生の秘書がわりに世話をしていました。少女がやっと自分だけのお人形を手にしたように幸せそうでした。

奥さんは先生とは正反対の小柄の京女で、若いときはきっとすごい美人だったんだろうなあと思わせる人です。

ただ、そのことを言うと「プイッ」っとして、

「今はどうなの?」

と聞いて、私をわざと困らせるのです。

確かに、先生に会うのは口実で、奥さんの女学校の頃のファンではないかと思う人が何人か尋ねてきました。

先生が俄然やる気を見せたのは、いわば「プロジェクト屋」とでも言うもので、思付いたり、一丁噛み?しようとしたプロジェクトは、『浜大津港湾地域再開発計画』や『八重山諸島身障者コロニー計画』、『国際大学院大学計画』などです。注)現実の組織、計画とは無関係です。

そのようなプロジェクトが始まると、出入りする人が変になって、「ダリ?の弟子の建築デザイナー」とか「某有名大使の弟?」などが来ました。

先生は、まだ万博の頃にやったプロデューサーのうま味が忘れられないのです。

<その⑤>

仁木先生は自論を述べると、

「これからの生物学や社会科学は『ネオテニー』がキーワードになる。」

が直ぐ出てきて、早く論文としてまとめたいようでした。

『ネオテニー(neoteny)は、動物において、性的に完全に成熟した個体でありながら非生殖器官に未成熟な、つまり幼生や幼体の性質が残る現象のこと。幼形成熟、幼態成熟ともいう。』(=ウィキペディア)

アシュレイ・モンターギュの『ネオテニー』が1986年ですから、目をつけていたのは先生の方が早いのかもしれません。私がもう少し、博学であったならと残念なのは、

『ゴニター第五伯爵が鯉の内臓を食べると長寿になれると信じて、その日々の経緯を日記にのこした。その日記が百数十年後になって発見された。興味をもった連中が日記の記述にしたがってあちこち探索してみたところ、ある城の一室で化石のように蟄居していた老いぼれが発見された。伯爵だった。その姿はまるで類人猿の胎児がそのまま二百歳ほど成長した様相と顔貌だった。

オルダス・ハックスレーの「夏の白鳥」である。』(=松岡正剛:千夜千冊)

の話や、ボルクの「ヒトは性的に成熟したサルの胎児なのである!」の話を後で知ったことです。

先生と、もう少し議論が出来る私であったならと今さらながら思うのです。

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2021年10月21日 (木)

私の世界ー人との出会い・「堀部君は強くて格好良かった!」(リメイク)

・以前に作った自分なりに良い?と思うものをまとめてみることにします。

<その①>

堀部君を最初に見た衝撃は今でも忘れられません。柔道の1年の新人戦のとき個人戦に出るために先輩について行って団体戦を見たときのことです。

「えっ、まさかあの子とやるの?・・」

彼は3年生に混じってレギュラーで団体戦を戦っていたのです。

それも使う業が華麗と言うか、上級生を相手に中学1年にはとても出来そうにない、「膝車」や「大外落とし」で1本を取っていました。その技は強い3年生でも簡単に投げられそうな凄いものです。

西先生は試合の少し前から「堀部という強い子が相手だから、寝技でやっつけろ、決してひるんで負けてはいけない!」、「寝技なら、お前が絶対勝つ!」と言っていたのです。

中学に入って柔道部員になると、肥満児の僕に先生は目をつけたのか、朝練も午後の練習も最初に私を呼んで15分~30分寝技をする毎日でした。始めの内は初老にしては重くてものすごく力のある先生に、身動き一つ出来なくて気絶しそうになるのに「動け」、「頑張って起きろ!」と言うのです。

不思議なことに2ヶ月ほど寝技ばかりしていると、少しづつ動けるようになりました。3ヶ月近くになると先生がどんなに押さえ込んでも逃げるようになります。そして、僕の方が先生を寝技で攻めるようになると呼ばれなくなりました。いわゆる寝技を「卒業」したのです。

先生はその頃になると先輩たちと試合をさせるのです。寝技しか知らないのですが練習は立ち技もして、体の使い方が寝技と同じなのか、「力が強くなっていて」上級生にも簡単に投げられなくなっていました。

そして、西先生に「堀部に負けるな」と聞かされたのです。

僕が困ったのは、物語に出てくる柔術の悪役が絞め技や関節技などの寝技を使い、正義の味方はかっこいい投げ技を使います。堀部君が正義の味方で僕が「悪役のデブッちょ」で、勝てるわけが無いのです。

<その②>

堀部君はお父さんの道場で歩き始めた頃から柔道をしていたそうです。体は僕が大人のような体格なので、それより小さかったのですが筋肉質の均整の取れた格好良い柔道少年でした。

新人戦は決勝で当たりましたが、組む間もなく「大外落とし?」で秒殺されました。大体試合になっていなかったのは、僕が上がってしまって組むとき顔も良く見れない状態だったのです。

負けてしまってあれほど「絶対負けるな、寝技でやっつけろ!」と言っていた西先生の前へ行くと「まあ、よくやった・・」と笑っていました。それまで、負けると絶対怒られると覚悟していたので拍子抜けしました。

先生も僕が堀部君に勝つとは思っていなかったようです。

決勝に行くまで、立ち技でこかされては寝技で逆転という試合だったのですがそれが先生の気に入ったのかも知れません。

後でライバルになる藤田君には準決勝で当たったのですが「体落し」で技ありを取って「袈裟固め」をしてきました。西先生は「袈裟固め」をすると怒る禁じ手の寝技で「崩れ袈裟」にしなければなりません。簡単にひっくり返せて逆に押さえ込めるのです。先生や3年のレギュラーの先輩が押さえても「袈裟固め」なら逆転出来ました。当然、藤田君の「袈裟固め」は返して逆転することが出来て「崩れ袈裟」で1本でした。

当時の中学柔道はまだ戦争の遺産と言うかアメリカ進駐軍が格闘技の全国大会を許していませんでした。そんな状況で桂中学の柔道部は近畿大会の常連だったのです。

桂中の柔道部は休みが正月だけで授業の前の朝練と授業後の午後練をしていました。先生も若い頃は竹刀を持って「半端な練習をすると叩いた」という噂がありました。竹刀は本当に道場の隅に置いてあり、先生は時々威嚇行動のように練習前の準備運動に振っていました。

別に練習が嫌いではなかったのですが台風のシーズンが来ると、台風を心待ちにして学校が休みで「練習休み?」を期待している自分がいました。

<その③>

次の府下大会は宮津市でありました。彼とは決勝戦で当たったのですが今度は僕も上がることは無くて、投げられないようにがんばりました。

寝技で勝つためには相手をこかすか1本を取られないように投げられ寝技に持ち込む必要があります。堀部君はお父さんがそうなのか「体捌きで相手を投げる」柔道で決して「背負い投げ」のような相手にもぐりこんで背中をくっつけて投げるようなことをしないのです。

つまり、投げようとするのをがまんして抱きついて寝技に持ち込むことが出来ないし、少しだけこかされて寝技は無理なのです。

悲しいことに僕には彼をこかす業がありません。前の日に一晩中考えて、最後の必殺技「帯をもって大内掛け」を編み出したのですが試合で掛けようとした瞬間、

「あっ、あかん!・・」

と思いました。彼はビクともしなかったのです。

僕も投げられないように頑張ったので試合の決着が付きませんでした。ラッキーなことに当時は僅差の判定が無く、「技あり以上」なのです。

延長を何回かして、時間が経ってどちらもへとへとになって、よけいに技が決まらず、審判も困ってしまいました。競技委員の先生方は随分長く相談していたのですが、結局両者1位の「引き分け」となったのです。驚くことに後から立派な「1位の盾」がお家に送られてきました。堀部君も同じものを貰っているはずです。

当時は悠長と言うか郡部の柔道連盟なので「お金」があったのかも知れません。市の大会ではメダルがせいぜいで大抵表彰状1枚なのです。

堀部君には謝っておきたいことがあるのです。

2年の試合が桂中学の講堂であったとき個人戦で当たったのです。

実力伯仲して、また決着が付きかねたときの場外近くで、

「分かれるか?・・」

となったときです。言葉には出さなかったのですが互いに目と目でそんな会話をしたのです。

堀部君が手の力を緩めて道着をはなそうとした瞬間、僕は卑怯にも、

「今だ!・・」

と言う悪魔のささやきに負けてしまい、「抱え投げ(浮き腰)」を掛けてしまったのです。

試合が終わって、謝ろうと思って堀部君のところに行くとお父さんに叱られているのです。

『だって、金澤君が分かれよ?・・って言ったモン!』

『審判が「分かれ」と言ってないのに力を抜く奴があるか、お前が悪いのや!』

それを聞いてしまって、謝ることが出来ませんでした。

高校生になって、彼が自殺したことを聞きました。

大阪の柔道の強い有名校に進学して、ガンバッテいると思ったのに胸に大きな穴が空いたままなのです。

 堀部君ゴメンね・・

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2019年7月22日 (月)

私の世界・面白い話のネタ―「PABのマエダコーヒー・・!?」

 ママが古くからの知り合いで、昼はコーヒー、夜はPABになるマエダコーヒーという店が高倉・六角下がる西側の高倉小学校の北隣にあります。なお、京都には有名な前田珈琲という店がありますが、それとは別です。

 前田のマスターは。「私の世界・人との邂逅―前田のマスター⑤・マスターの『吾亦紅:われもこう』」などで紹介している友人で、会社の社内旅行に付いて来たり、スキーに一緒に行ったり、祇園のクラブへ行ったりの遊び友達、遊び以外にもお互いにかなり世話になっている人、マエダのママはその奥さんです。

PABのマエダコーヒー

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 マスターが亡くなってからも、話がてら夜のPABにはお酒を飲みによく行きますが、何しろその年にしてはかなりの美形、というか、美魔女です。従って、店には年寄りのファンも多く、いつも誰か来て居るのが普通です。

 ブログ用にマップで調べると“Beste bar i kyot”とあり、多分ドイツ語?で「京都で最高のバー」のようですが、外人さん(ドイツから来た人など・・)のファンも居るみたいです。

 ずいぶん昔(20年以上前)になりますが、前田夫婦が結婚20週年を迎えるという時、社内旅行がハワイだったので一緒に行こうと誘いました。8万弱で6日の当時としては格安のツアーです。

 宿泊はアラモアナの先、ヨットハーバーの奥にあるホブロンというホテル、アメリカの人(ある程度の金持ち)が長逗留するようなホテルです。

 日本人旅行者が大金を叩いて泊る、ウォターフロントのホテルは、当時、プールや施設は宿泊客でなくとも使えるので、

 「そこでゆっくりして、浜辺で遊べばいいよ・・!」

と説明したので、ロイヤル・ハワイアンやシェラトン・プリンセスを利用して写真も沢山撮って帰りました。

 帰って、店の客に写真を見せると、

 「凄いホテルに泊って、相当お金使ったんちゃうの・・?」

といわれて、返事に困ったそうです。

 ・・で、「今度は、絶対ウォターフロントの高級ホテルに連れてって・・!」が口癖なのです。

・私の世界・人との邂逅―前田のマスター⑤・マスターの『吾亦紅:われもこう』

http://masaki-knz.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-ce9c.html

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2014年4月 2日 (水)

私の世界・知らない世界―祇園甲部のお店、喫茶“花み津”

桂高校の柔道部のOB会が330日にあり、早いもので去年のOB会からもう1年経ってしまったのです。

2次会が、先輩の上野さんのお店、“花み津”でやるということで、驚いたのは、何と場所が祇園甲部にあるのです。

祇園甲部については、丁度41日に、京都市発行“市民しんぶん”の1面に「京・花街の文化」で紹介されています。

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マップで確認すると、まだ、“お茶屋上野”となっていました。

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1年上の三浦先輩が車で連れてくれたおかげで2次会に出られ、1年振りに先輩諸氏(2年上)に会いました。「去年に比べ、ずい分元気になったように? 見える・・」と言われ、握手攻めがうれしかったのです。

“花み津”は、お家のお茶屋を外見は変えずに中だけ改装した、以前は女優? みたいな、美人の奥さんと上野先輩、二人の可愛い喫茶店です。

お店の写真(Miura撮影)

03 

祇園甲部

京都市東山区にある京都で最大の花街。寛永年間(1624 - 1645年)に祇園社(八坂神社)の門前で営業された水茶屋がこの花街の始まりで、京都所司代板倉重宗によって茶立ち女を置くことが許可され、門前の茶屋町を「祇園町」と称するようになった。寛文年間になると四条河原町に芝居小屋が建ち、四条通りと大和通りにも茶屋が開かれるようになり、弁財天町・二十一軒町・中之町・山端町・宮川町で、「祇園外六町」と称した。享保17年(1732年)、正式に茶屋渡世の営業許可が下りると元吉町・橋本町・林下町・末吉町・清本町・富永町の「祇園内六町」が開かれ、さらに繁栄した。この際に、団子をモチーフにした紋章が作られた。この紋章は現在も祇園甲部と祇園東の紋章として使われている。江戸末期にはお茶屋が500軒、芸妓、舞妓、娼妓合わせて1000人以上いたという。

しかし、東京奠都によって繁栄に陰りが差した祇園を立て直すために明治5年(1872年)に一力亭の九代目当主杉浦治郎右衛門は大参事槇村正直や初代京都府知事長谷信篤の協力を得ながら「祇園甲部歌舞会」を設立し、芸による職業女性としての自立と地位向上をめざした。また、京都博覧会の付け博覧会として都をどりを企画し創設した。(詳細は「都をどり」の項を参照のこと)第一回の都をどりの振り付けを担当したのが三世井上八千代であり、これ以降の祇園甲部の舞いは井上流に限るとする取り決めがなされ、現在まで祇園の舞は井上流一筋となっている。(それ以前は篠塚流の存在も大きかった)。この時期、祇園は文人や政治家等に愛され大いに繁栄した。当時、「膳所裏」と呼ばれていた一部の地域は祇園乙部、後の祇園東(乙部の詳細は「祇園東」の項を参照のこと)として分離し、現代に至る。

大正元年(1912年)、貸座敷取締規制改正により四条通両側、縄手通(大和大路通)におけるお茶屋営業が禁止され、四条通に面していた一力亭は入口を花見小路側に移設した。第二次世界大戦が始まると白川沿いの北側は建物疎開で破壊された(その中に磯田多佳が経営していた「大友(だいとも)」が含まれていた)。この地域は現在は遊歩道となっている。終戦後(1945 - )、祇園甲部はすぐに営業を再開、その5年後に「都をどり」が南座で再開(後に本拠地である歌舞練場に戻り、今に至る)。

昭和30年代から40年代にかけてお茶屋150軒、芸妓、舞妓合わせて600人を数えたが、時代の流れと共に花街の規模は縮小していった。古い街並みはビルに変わり、加えてバーやスナック、性風俗店の進出により環境が悪化する。新橋地区(元吉町)の住民はこの乱開発に危惧を抱き、この地域の町並み保存を行政に働きかけた。この結果、新橋地区は修景地区に指定され、1976年に重要伝統的建造物群保存地区として選定される。一方、祇園町南側(とくに花見小路周辺)は女紅場学園所有であるために乱開発は逃れ、歴史的風景特別修景地区に指定された。

この町のシンボルというべき舞妓も一時は20人以下へと落ち込んでいたが、近年徐々に回復し、現在は30人弱にまで増えていると言われる。(=ウィキペディア)

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2013年4月23日 (火)

私の世界・面白い話のネタ―桂高校柔道部と「蕎麦がき」(続き02)

OB会のあと、三浦先輩が「昼飯でも食べへんか?・・」と連絡してきました。「少し、ドライブするけどかまへんやろ?・・」と言うので、「多分あそこや!・・」と察しが付きました。

思った通り、「愛宕山」の方に車は向かいました。

三浦先輩よりもう一つ上の吉田さんが「越畑で蕎麦屋さんをしている」というのは、OB会で話題になっていたのです。何でも、“越畑フレンドパーク”とかいうのです。

清滝から愛宕山を抜けて越畑は、半端なく曲がりくねった山道で、途中でダンプなんかに会おうものなら悲惨なことになりそうな道でした。

何とか無事に抜けると、少し明るい集落などがあって道も良くなりました。

着いてみると、立派な民家風の「まつばら」という蕎麦屋さんで、中に入って先輩を呼んでもらって、メニューの「天ぷらそば」と「蕎麦がき」を頼みました。

吉田先輩がお家から来られて、話をしていると三浦さんは何を思ったのか、「天ぷらそば」だけと言っていたのに、「蕎麦がきぜんざい」を追加注文してしまうのです。

「蕎麦がきぜんざい」が出てくると、「半分は、お前が食べてくれ!・・」というのです。先輩の言うことは絶対で、血糖値が上がって死んでも食べねばならないのです。と言うか、ほんとは死んでも食べたかった。

下がその「天ぷらそば」と「蕎麦がきぜんざい」です。「天ぷらそば」もお蕎麦が100%で凄く美味しかったのですが、「蕎麦がきぜんざい」はボリュウムがあって絶品で、今まで食べたことのない美味しさでした。

「まつばら」の前の“しだれ桜”

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「天ぷらそば」

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「蕎麦がきぜんざい」

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話しは別に:高校時代の吉田先輩の得意技は、プロレスのバックドロップに似た「裏投げ」という技です。相手の内股などの技を受け、跳ね返す技ですから、なにしろ強靭な足腰と腕力が必要なのです。越畑に行って、段々畑のある急峻な地形を見て、「なるほど!・・」と納得がいったのです。子供の頃からこんな山河を駆け回って遊んだり、家業の農家を手伝っていたら、強靭な足腰や腕力も納得です。

話を聞いて驚いたのですが、吉田先輩は越畑から桂高校まで、片道2時間掛けて通っていたのだそうです。それで、柔道の練習を毎日して皆勤賞ものですから、かなりの柔道オタク?だったのです。因みに私は家まで自転車で5分でした。

吉田先輩

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京都府のHPに“越畑フレンドパークまつばら”があります。

アクセスは京都縦貫道「八木東IC」から国道477号線がいいようです。

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2013年4月 2日 (火)

私の世界・面白い話のネタ―桂高校柔道部の歌

日曜日に柔道部のOB会に久しぶりに行きました。

生活も、体もボロボロ?で元気と思われる先輩たちに会うのは、若干辛いものがあったのですが、でも懐かしくて会いたかったのです。

何人かの先輩の手を握って、昔を思い出すと涙が出そうでした。やっぱり、みんな、握手した手はごつくて温かかった。

酷い糖尿病性神経症の所為で、細くて冷たいボクの手には、本当にごつくて、温かいのです。

会が終って帰りのタクシーの中で話をしていると、桂高校の柔道部の歌を先輩たちは覚えていないというのです。

1番はいいのだけれど2番が途中までで、どうしても出てこないのだそうです。ボクが勝ったと思ったのはこの歌のことだけでした。それも3番まで覚えています。

恥ずかしいのですが、何でも勝ち負けは、中学の頃から厳しい試合ばかりをしている性(さが)のようなものです。

<桂高校柔道部の歌>(訂正更新しました 13/04/03

柔らの道を一筋に 求めて過ぎし幾歳せぞ

闘志に生きんいざ友よ 我等桂の柔道

桂の流れ水清く 心一つに合わせつつ

燃ゆる瞳に見上げれば 夕日に淡しお塩山

荒ぶ嵐は猛くとも 錬磨の腕(かいな)君見ずや

滾(たぎる)る血潮命とて 我が雄たけびと歌いなん

ああ紅顔の男(おのこ)らが 競(きそ)わん道ははるけくも

闘志に生きんいざ友よ 我等桂の柔道部

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2012年1月11日 (水)

私の世界・人との出会い―堀部君は強くて格好良かった③

次の府下大会は宮津市でありました。彼とは決勝戦で当たったのですが今度は僕も上がることは無くて、投げられないようにがんばりました。

寝技で勝つためには相手をこかすか1本を取られないように投げられ寝技に持ち込む必要があります。堀部君はお父さんがそうなのか「体捌きで相手を投げる」柔道で決して「背負い投げ」のような相手にもぐりこんで背中をくっつけて投げるようなことをしないのです。

つまり、投げようとするのをがまんして抱きついて寝技に持ち込むことが出来ないし、少しだけこかされて寝技は無理なのです。

悲しいことに僕には彼をこかす業がありません。前の日に一晩中考えて、最後の必殺技「帯をもって大内掛け」を編み出したのですが試合で掛けようとした瞬間、

「あっ、あかん!・・」

と思いました。彼はビクともしなかったのです。

僕も投げられないように頑張ったので試合の決着が付きませんでした。ラッキーなことに当時は僅差の判定が無く、「技あり以上」なのです。

延長を何回かして、時間が経ってどちらもへとへとになって、よけいに技が決まらず、審判も困ってしまいました。競技委員の先生方は随分長く相談していたのですが、結局両者1位の「引き分け」となったのです。驚くことに後から立派な「1位の盾」がお家に送られてきました。堀部君も同じものを貰っているはずです。

当時は悠長と言うか郡部の柔道連盟なので「お金」があったのかも知れません。市の大会ではメダルがせいぜいで大抵表彰状1枚なのです。

堀部君には謝っておきたいことがあるのです。

2年の試合が桂中学の講堂であったとき個人戦で当たったのです。

実力伯仲して、また決着が付きかねたときの場外近くで、

「分かれるか?・・」

となったときです。言葉には出さなかったのですが互いに目と目でそんな会話をしたのです。

堀部君が手の力を緩めて道着をはなそうとした瞬間、僕は卑怯にも、

「今だ!・・」

と言う悪魔のささやきに負けてしまい、「抱え投げ(浮き腰)」を掛けてしまったのです。

試合が終わって、謝ろうと思って堀部君のところに行くとお父さんに叱られているのです。

『だって、金澤君が分かれよ?・・って言ったモン!』

『審判が「分かれ」と言ってないのに力を抜く奴があるか、お前が悪いのや!』

それを聞いてしまって、謝ることが出来ませんでした。

高校生になって、彼が自殺したことを聞きました。

 大阪の柔道の強い有名校に進学して、ガンバッテいると思ったのに胸に大きな穴が空いたままなのです。

 堀部君ゴメンね!

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2012年1月10日 (火)

私の世界・人との出会い―堀部君は強くて格好良かった②

堀部君はお父さんの道場で歩き始めた頃から柔道をしていたそうです。体は僕が大人のような体格なので、それより小さかったのですが筋肉質の均整の取れた格好良い柔道少年でした。

新人戦は決勝で当たりましたが、組む間もなく「大外落とし?」で秒殺されました。大体試合になっていなかったのは、僕が上がってしまって組むとき顔も良く見れない状態だったのです。

負けてしまってあれほど「絶対負けるな、寝技でやっつけろ!」と言っていた西先生の前へ行くと「まあ、よくやった・・」と笑っていました。それまで、負けると絶対怒られると覚悟していたので拍子抜けしました。

先生も僕が堀部君に勝つとは思っていなかったようです。

決勝に行くまで、立ち技でこかされては寝技で逆転という試合だったのですがそれが先生の気に入ったのかも知れません。

後でライバルになる藤田君には準決勝で当たったのですが「体落し」で技ありを取って「袈裟固め」をしてきました。西先生は「袈裟固め」をすると怒る禁じ手の寝技で「崩れ袈裟」にしなければなりません。簡単にひっくり返せて逆に押さえ込めるのです。先生や3年のレギュラーの先輩が押さえても「袈裟固め」なら逆転出来ました。当然、藤田君の「袈裟固め」は返して逆転することが出来て「崩れ袈裟」で1本でした。

当時の中学柔道はまだ戦争の遺産と言うかアメリカ進駐軍が格闘技の全国大会を許していませんでした。そんな状況で桂中学の柔道部は近畿大会の常連だったのです。

桂中の柔道部は休みが正月だけで授業の前の朝練と授業後の午後練をしていました。先生も若い頃は竹刀を持って「半端な練習をすると叩いた」という噂がありました。竹刀は本当に道場の隅に置いてあり、先生は時々威嚇行動のように練習前の準備運動に振っていました。

別に練習が嫌いではなかったのですが台風のシーズンが来ると、台風を心待ちにして学校が休みで「練習休み?」を期待している自分がいました。

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2012年1月 9日 (月)

私の世界・人との出会い―堀部君は強くて格好良かった①

堀部君を最初に見た衝撃は今でも忘れられません。柔道の1年の新人戦のとき個人戦に出るために先輩について行って団体戦を見たときのことです。

「えっ、まさかあの子とやるの?・・」

彼は3年生に混じってレギュラーで団体戦を戦っていたのです。

それも使う業が華麗と言うか、上級生を相手に中学1年にはとても出来そうにない、「膝車」や「大外落とし」で1本を取っていました。その技は強い3年生でも簡単に投げられそうな凄いものです。

西先生は試合の少し前から「堀部という強い子が相手だから、寝技でやっつけろ、決してひるんで負けてはいけない!」、「寝技なら、お前が絶対勝つ!」と言っていたのです。

中学に入って柔道部員になると、肥満児の僕に先生は目をつけたのか、朝練も午後の練習も最初に私を呼んで15分~30分寝技をする毎日でした。始めの内は初老にしては重くてものすごく力のある先生に、身動き一つ出来なくて気絶しそうになるのに「動け」、「頑張って起きろ!」と言うのです。

不思議なことに2ヶ月ほど寝技ばかりしていると、少しづつ動けるようになりました。3ヶ月近くになると先生がどんなに押さえ込んでも逃げるようになります。そして、僕の方が先生を寝技で攻めるようになると呼ばれなくなりました。いわゆる寝技を「卒業」したのです。

先生はその頃になると先輩たちと試合をさせるのです。寝技しか知らないのですが練習は立ち技もして、体の使い方が寝技と同じなのか、「力が強くなっていて」上級生にも簡単に投げられなくなっていました。

そして、「堀部に負けるな」と聞かされたのです。

僕が困ったのは、物語に出てくる柔術の悪役が絞め技や関節技などの寝技を使い、正義の味方はかっこいい投げ技を使います。堀部君が正義の味方で僕が「悪役のデブッちょ」で、勝てるわけが無いのです。

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