東京生活

2011年10月12日 (水)

私の世界・東京生活⑤―「完徹二日」

当時の私は京都と東京を往復する二重生活で、一週間の内に月曜の朝に東京に行って木曜か金曜の晩に京都に帰るというものです。仕事が混むと良く徹夜をすることになります。それも全く寝ないで朝までやってそのまま納品という事がよくありました。ただし、プログラムを組むというのはほとんどなくて、報告書をまとめる仕事です。

アルバイトの人に図表の作成や電卓の計算を手伝ってもらって報告書の原稿を書くと言うものです。ひどいときは丸二日寝ないでやら無ければならないことがありました。いわゆる完徹二日です。

二日目にもなると明け方の4時ごろがきびしいのです。余りに眠くてペンが進まないのでアルバイトの子に、

「すまないけど1時間ほど休むので、1時間したら起こして!・・」

と言って空いた机の上に横になって寝ようとするのですが、誰かが体を突っつくのです。

「そんなことしたら寝られへやんか!なんやねん、聞きたいことかがあるの?・・」

と起き上がるとバイトの子は冷酷に、

「時間です!?・・」

と言うのです。

京大式カードをメモ帳代わりに使っていたのですが日程欄の忙しい時を見ると4ヶ月で1ヶ月以上の徹夜をしていました。若いから出来たのとそのしわ寄せが今来ているのかも知れません。

話しは別に:徹夜でやった仕事をNBCに納品して、打ち合わせが終わるとたいていOFFなので京都に帰りました。そのときの新幹線の3時間は至福の時でした。徹夜明けでも新大阪まで乗り過ごさないことが自慢でした。

完徹二日は約60時間ほどになり今は自分でも驚きます。

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2011年10月 2日 (日)

私の世界・東京生活④―関西方式と東京方式(その2)

打ち合わせが終わると、確認事項のメモに双方がハンコを押してコピーを持ち帰ることになりました。これは下請けにとって願っても無いことで、相手の仕様の変更やミスが記録として残ります。大規模なシステムは急ぐものほど変更やミスがつき物で関西では全て下請けの泣き寝入りが普通でした。

逆に担当者に同情したほどなのです。

ハンコを突いた確認事項があれば、納期や料金の話が出たときこちらが有利なのは当然だからです。但し、変更やミスの無い仕様書を受けてしまったときは納期変更は罰金ものとなります。

東京では仕事を明示的にこなすことが前提のようです。例えば、仕事が込んで来たとき担当と異なる仕事を上司がごり押しした場合、自分の能力を把握してきちっと断る人のほうが出世するようです。関西では多少の無理を聞く人の方が上司の覚えめでたいもので、無理を聞けば納期が多少ずれても許される雰囲気がありました。

課長に「コボルのプログラムを受けてくれないか?・・」と頼まれたプログラマーが「自分はRGP(簡易言語)を専門にやれと言われているので、ダメです。!」と断っているのを聞きました。

私は「プログラマーならコボルぐらいこなせよ?・・」と思ったのですが。

ラッキーなことに私の担当は余り職分を守る人ではありませんでした。仕事を抱え込んで四苦八苦しているのでこちらが手伝ってあげようかと思うほどです。当然、沢山仕事はこなしているのに、主任になったのは職分を守る人の方が先でした。

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2011年9月26日 (月)

私の世界・東京生活④―関西方式と東京方式(その1)

東京で仕事をしてたとき「関西と随分違うなあ?・・」と感じることが多々ありました。とくに東京では関西特有の「なあなあ・・?」がありません。すべてが明示的に処理されることが「たてまえ!」なのです。

例えば仕様書のレビューを受けた後、確認事項を書いて担当者と下請けの両者は日付を書いてハンコを押し、互いにコピーを持ち帰ることが多く在りました。その場合の確認事項に書いてある完成納期は絶対に守る必要があるのです。

関西では、コンピュータの仕様に変更は付き物なので、納期も以外に曖昧なものが多いのです。すごいときは仕様書がまだ出来ていないのに発注されて、値段だけ決まっていることがあります。

もっとすごいのが「まる投げ方式」と言うもので、依頼者(受託者)は内容にタッチせず下請けが「本当の依頼者(顧客)」から話を聞いて仕様書の作成から納品までを請け負うものが多くありました。

従って多少の仕様変更は仕方がないもので、納期や仕事には反映されません。

ただ、納期に係わると思われる仕様の変更や錯誤が見つかったときは、言わずとも納期が守られないことは暗黙の了解事項になるのです。

そのような関西と同じつもりで仕事を請け負っていたら、私のグループは納期を守らないと言う話が部長からのクレームとして出て来ました。

担当の人とは上手く行っていたので、「寝耳に水!」です。当初の開発予定から大幅に遅れていると言うのです。担当者と協議しながら問題なくやっていたのですが、確かに仕様の間違いや変更が多く在って納期がずれても仕方ないだろうと思っていました。

部長は納期を守ることが第一条件で、そのためには仕様書に間違いや変更があればそのつど料金や日程に明示的に反映させること肝心だと言うのです。実はそのことは下請けにとって願っても無いことでした。私たちではなくて担当者に落ちたカミナリだったのです。

それで、確認事項のハンコ方式が始まったのです。

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2011年9月23日 (金)

私の世界・東京生活③―メルクスの三奇人

NBCの仕事をしているときメルクスの三奇人と言われる人達がいました。

1人目はNさんで東大の理系で大学院を卒業していて心身症か何かで会社を辞めたエンジニアだそうです。変なのは服装が余りにもキチットし過ぎで、廊下を歩くときに遠くの一点を見たまま、ロボットのように歩くのです。

2人目は南村さんです。服装は普通なのですがいつもリラックスしたいのか靴下も脱いで裸足になるのです。廊下やパンチ室、トイレまでそのまま行ってしまいます。それを見かねたのかNBCの部長はスリッパをプレゼントしました。

もう1つ変なのは仕事に夢中になると貧乏ゆすりをするのです。NBCのシステム部は1室に二百人以上いて、向かい合った机が10列(1グループ20人程度)近く並んで10グループあるような大部屋ですが、南村さんたち出向組みは出口に近い末席に座ります。女性のプログラマーや補助員が半数近く居ました。

あるとき南村さんが貧乏ゆすりをするとグループ全体の机が共振し始めたのです。近くに座っている女性補助員が、

「キャー、地震よぉー!・・?」

と叫んだトタン、部屋全体が「ウォー、地震ダァー!・・」と立ち上りました。

幸いなことに、彼も驚いてゆするのを止めたので一部回りの女性だけ気が付く程度で治まったのです。

最後にもう1つ、廊下を歩くときなどに子供の様に何かの目標をなぞる癖があります。壁の線をいつもなぞって歩いていました。

コンピュータ使用の申請用紙は課長の机の前に置いてあるのですが、当然課長は入り口から一番遠い窓際に座っているのです。プログラムが完成すると申請書を貰いに課長の前まで行って申請書を貰うのです。

あるとき、申請書を貰おう歩き始めたとき新しい目標に気が付いて思わずなぞって行きました。

彼の見つけた目標は並んで座っている女性たちのブラジャーの線でした。

(その後の結果は想像に任せます。?)

そんな南村さんですが女性の人には好かれていて人気がありました。

3人目は理不尽なことに私だそうです。

当時の服装がワイシャツにコンサル・ネクタイ、デニムのズボンにアーミージャケットでした。部長から「あのデニムのズボンはない!せめて普通の?・・」と言われたと岡野さん(メルクスの部長)から聞きました。

話しは別に:私の言うコンサル・ネクタイとはニットネクタイの濃紺のものです。これだと付けていてもリラックス出来て使用感が良いのです。一応ネクタイを付けている事になるので役所やお客さんとの会議にも出られます。濃紺なのはお葬式もいける(黒だと平時?が少し変)のと汚れが目立たないからです。

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2011年9月16日 (金)

私の世界・東京生活②―メルクスの岡村さん

東京でNBCの仕事の下請けをして驚いたのはその仕事の規模の大きさです。

関西だと数社のコンサルがジョイントして受けないと出来ないようなパーソントリップ調査や物流調査を一社で受けていて、担当も1人なのです。もちろん背後にソフトウェアー部隊がいてフォローしているのです。

一度に何箇所かの調査を受託して、最初に構築した運用システムを流用して効率を上げていました。

ある調査の内容が他と異なると、その運用ソフトを例外的に新しく作らなければなりません。私はそのような部分のソフトを請け負ったのです。

コンピュータ学校で一緒に勉強した岡村さんと言う先輩がいました。

「コンピュータがどんなものか勘をやしなうだけや!・・」

と余り熱心に授業は受けていませんでした。

テキスタイルデザイナーが本職と言っていたと思うのですが、かなり年上の社会人で、ものの分かった兄貴と言う感じです。

半年も過ぎた頃、

「学校止めて東京に行くわ!・・」

と言い出しました。

言い出したときは、もう決まっていて来週にでも行くというものです

マージャンなどを一緒にやる仲良しグループだったので、

「東京に行って成功したら、絶対呼びに来てや!?・・」

と言ってしまいました。

驚くことに、「絶対呼びに来た!」のです。3年もしないで、5人ほどでメルクスと言うソフト開発会社を作ったのです。このときはシステムに入ったばかりなので「もう少し経験を積ましてほしい!」と断りました。

メルクスは営業が主力?のソフト開発会社で幹部の技術屋さんは1人なのですが、見てる間に大きくなるのです。まさしく倍々ゲームのようでした。

5年程経ってシステムを辞めてサインをみんなで作った頃、岡村さんが、

「もうええ頃ちゃうの、東京にけえへんか?・・」

と言ってきました。このときメルクスは社員が200人以上の規模でした。

とりあえず東京に行くことになって、NBCの仕事をやることになったのです。

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2011年9月 9日 (金)

私の世界・東京生活①

次に東京生活をしたのは、NBCの仕事で最初は西五反田の安アパートに3ヶ月、一階に旧ブルガリア大使館?があった上大崎のマンションに1年近く住みました。住んだと言っても、京都と東京を往復する二重生活で、一週間の内に月曜の朝に東京に行って木曜か金曜の晩に京都に帰るというものです。京都のサインにも仕事があったのです。

西五反田の安アパートは6畳一間にトイレというもので、日当たりが悪く住み心地は良くありませんでしたが、目黒線の踏み切りが近くにあって下町の情緒は十分ありました。確か近くの駅が「不動前」です。一杯飲み屋のおじさんと仲良くなったりして、特に肉豆腐は案外安くて関西人好みの味で美味しいので気に入りました。

そこから、渋谷の道玄坂のNBCまで通ったのです。通勤は環状線に乗って行くのですが、サラリーマンと違い朝も多少遅くとも良く、仕事終わりが不規則です。早く仕事が終わると、帰りに道玄坂のサウナに風呂代わりに行きました。

困ったのは、その頃にサウナに行く人はどうも刺青をした人が多いのです。

不思議なのは関西ではお断りのはずなのに、彼等は堂々と入ってました。もっと困ったのは、何故か普通に声をかけられ、話してこられるのです。

そのことをメルクスの岡野さんに話したら、

「同じ匂いがするのと違うの?・・」

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2011年9月 6日 (火)

私の世界・始めての東京生活②

二週間ほどのホテル暮らしをして、乙部さんの話を聞けたのでやっと帰らしてもらえました。帰って事務所に出てみるとみんなの見る目が変でした。

「何でそんな変な目で見るのさアー、何処か変なの?・・」

まさしく東京のオカマ言葉が乗り移って帰って来たのです。

元々環境になじみやすいと言うか感化しやすい性格ですが、2週間ほどで関西弁をほかしてしまう自分が居たのです。

みんなは、

「あいつ身も心もオカマになったんちゃうやろか?!・・」

と思ったようです。

もっとすごいのは帰ると見てる間にオカマ言葉が抜けて関西弁になりました。

順応性が高いのは良いとしても、「君子豹変す」であれば良いのですが、「小人は面を革む」(『易経』)の方なのでしょう。

君子豹変す:君子は時代の変化に合わせて自分を素早く的確に変えていける

小人は面を革む:小人も“変われる”が、それは「表面的なもの」にとどまる

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2011年8月30日 (火)

私の世界・始めての東京生活①

第二通研への出張の後、乙部さんは12週間東京に来て、「側にいて話を聞いて欲しい?そうでないと仕事が進まない・・」と言うのです。当時、鴻池組は大きなコンペのために共同企業体でチームを組んで、あるビルの秘密の作業部屋を設けていました。乙部さんは主任なので抜け出せないから、私が側に居て「ひま、ひま?・・」に揚重機とPARTの話をしたいというのです。

秘密の大切なプロジェクトなのに、「大丈夫やろか?・・」と思いながら指定されたビルに行くと、第二通研で会った松尾さんが出てきました。彼はどうも乙部さんの部下で秘書のようなこともしているのかもしれません。

ビルの地下に設けた作業部屋は数部屋あって、忙しそうに人が出入りしていました。ソファーのある応接兼会議室のような処に通されて乙部さんを待ちました。ところがなかなか出てこないのです。出されたコーヒーをちびちび飲みながら、PARTの本を読んで待ちました。

昼過ぎに東京に着いて、何処も寄らずに来たのですが2・3時間待って日が暮れて宿屋が心配になりそうなとき、突然乙部さんは現れました。

「なんや君、来てたんか?・・」

が最初の言葉です。

驚いたことに他の人もぞろぞろ入ってきて、図面を広げて会議を始めるのでした。結局その日は何も出来ず、9時を過ぎてから乙部さんはホテルへ連れて行ってくれました。

秘密の地下室で東京の人達が話しているのを側で聞いて、「なんで東京はオカマばかりなんやろ?・・」と思いました。

「ねえ、・・・ちゃん、・・・やってよ?・・」

「でも、・・さあ、・・ちゃって・・」

が僕の頭を台風のように通り抜けていきました。

「今夜の宿屋、大丈夫やろか?・・」と不安になりました。

関西人からすると、東京の人?の言葉は「オカマ言葉」に聞こえます。それも、マスコミやコンサルなど人間関係の軋轢を日常的に感じている人種ほどそうなるようです。

京都言葉が妙に優しかったり、丁寧過ぎるのも何かの軋轢?プレッシャーのなせる業です。

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