桂の歴史

2016年6月 6日 (月)

私の世界・面白い話のネタ―桂高校柔道部、1つ上の先輩・・!?

この間、桂高校柔道部の1つ上の先輩の集まりに呼ばれ、昔の話をいろいろすると、何か? 久しぶりに胸が熱くなる感じ・・!? を思い出しました。

・・で、その桂高校柔道部の1つ上の先輩の追い出しコンパを学食(学校の食堂)でやった時の写真です。(古くてピントが合っていない上に携帯で接写コピーしたもので、画像のボケはお許し下さい)

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学食で“すき焼きパーティー”をしてからと思いますが、その後練習したあと校庭の芝生の上の写真、柔道着を着て座っている3人目、何か? 楽しそうに笑っています。

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2016年4月22日 (金)

私の世界・桂の歴史―「桂の地が読み込まれたおもな和歌・・!?」

下桂の桂離宮近くにある御霊神社のHPには「桂の地が読み込まれたおもな和歌」が紹介されています。

その“下桂・御霊神社”に橘逸勢が祀られていて、彼は空海・嵯峨天皇と共に三筆と称され、また暦23年(804年)に最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡っています。

そんな高貴な人が何故この私が住む田舎(自分の住んでいた中京に比べ、京都御所から離れているという意で、家内の言)の“桂”の神社に祀られているのか不思議? というか、大いなる謎なのです。

また、「桂の地が読み込まれたおもな和歌」は空海と朝原内親王の関連で橘逸勢を調べていて分かったことで、何か彼らに導いてもらった感じなのです。

「桂の地が読み込まれたおもな和歌」(“下桂・御霊神社”のHPより)

・いさここに我世はへなん久かたのかつらの里の月のよるよる 後鳥羽院

・月のすむ河の彼方(おち)なる里なれば桂の影はのどけかるらん 源氏物語

・久堅の光に近きここちして朝夕霧もはれぬ山里 源氏物語

・影宿す月の桂もひとつにて空より澄める秋の川水 大納言為氏

・久かたのかつらの里のさよ衣おりはへ月のいろにうつなり 続古今集・定家

・久かたの桂のさとの卯花は月かあらぬか夕くれのそら 夫木集・為家

・こよいわが桂の里の月を見て思いのこせることのなきかな 金葉集・経信

・久方の月に生いたる桂川 底なる影も変わらざりけり 土佐日記・紀貫之

「桂には月」という歌がほとんどで、桂は古くから観月の景勝地で皇族や藤原氏など貴族の別荘があり桂川では船遊びをしたそうです。(具体的には藤原道長の別荘も・・)

なお、“ひさかた”は月に掛かる枕詞ですが、私には「久しぶり・・」というか? いわゆる、“ハレ”と“ケ”のハレ=非日常の場、別荘や遊び(お祭り)を思い起こします。

いろいろ調べてみると、

・ひさかたの桂のかげになく鹿はひかりをかけて声ぞさやけき 後鳥羽院

・ひさかたの月の桂も秋はなほもみぢすればや照りまさるらむ 古今集・壬生忠岑

という和歌に出会いました。

ただし、残念なことにどちらも桂の里ではなく桂の木を歌ったもので、月には桂の大木が生えているという中国からの言い伝え(『酉陽雑俎』)があったそうです。

注)酉陽雑俎』(ゆうようざっそ):中国の唐代に荒唐無稽な怪異記事を集録した書物である。段成式(803 - 863年)撰、20巻・続集10巻。860年(咸通元年)頃の成立である。

ただ、「ひさかたの月の桂も秋はなほもみぢすればや照りまさるらむ」を読んでいるうちに不思議な衝動? というか、感動が起こりました。

つまり、“月の桂”を「月に照らされた桂の里」としても、何んの問題もないことに気付きました。(ただし、私は和歌の専門家・研究者ではありませんので、本当のところは知りません)

子供の頃から住んでいる桂の里は、月が東山から出て桂川を写り照らし、西山は秋になると美しい紅葉となるのです。関係はありませんが、もちろん、初夏の新緑の頃もいいもので、まして夕焼けの空を背にした小塩山など西山連峰とその前に丘陵が重なる景色はすばらしいものがあります。

昔の桂に別荘を持ったりそこに招待された高貴な人達が、月に生える桂の木になぞらえ、桂の里を思うのは不思議なことではありません。

最後にもう1つ、“isemonogatari.com”というサイトから発見したのですが、『伊勢物語』の第七十三段に“月のうちの桂”があります。

・目には見て手にはとられぬ月のうちの桂のごとき君にぞありける

その解説に、

「その人の居場所はわかっているが、逢うことも文を贈ることもできない。月の桂のようなあなた。切ない歌です。69段からの流れから見て、相手は伊勢の斎宮と見れます。この歌は『万葉集』の湯原王(ゆはらのおおきみ)の歌をもとにしています。

・目には見て手には取らぬ月の内の桂のごとき妹をいかにせむ

つれない女を恨む男の歌です。これも前段と同じく、万葉集の歌を少し言葉をもじって詠んでいます。」

とあります。

「桂に住む伊勢の斎宮」といえば朝原内親王を思わずにはいられませんが、朝原内親王は桂の真ん中にある千代原村の元の地名の“朝原”の由来の人で、“朝原”は斎宮になる前の禊のための住まい(宮殿)を設けた場所です。

「月のうちの桂」は彼女のことを想定しているのではないか? と思ってしまうのです。

つまり、地名の“桂”はそこに滞在した高貴な人達の「月の桂」からの連想から始まったようで、田舎などと言うのはとんでもないことです。

橘 逸勢(延暦元年(782年)? ~承和9813日(842924日))

平安時代初期の書家・貴族。参議・橘奈良麻呂の孫。右中弁・橘入居の末子。官位は従五位下・但馬権守、贈従四位下。書に秀で空海・嵯峨天皇と共に三筆と称される。

延暦23年(804年)に最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡る。中国語が苦手で、語学の壁のために唐の学校で自由に勉強ができないと嘆いている。おかげで語学の負担の少ない琴と書を学ぶことになり、大同元年(806年)の帰国後はそれらの第一人者となった。

承和7年(840年)に但馬権守に任ぜられる。のち、老いと病により出仕せず、静かに暮らしていたという。

承和9年(842年)の嵯峨上皇が没した2日後の717日に皇太子・恒貞親王の東国への移送を画策し謀反を企てているとの疑いで、伴健岑とともに捕縛された。両者は杖で何度も打たれる拷問を受けたが、両者共に罪を認めなかった。しかし、723日には仁明天皇より両者が謀反人であるとの詔勅が出され、春宮坊が兵によって包囲された。結局、大納言・藤原愛発や中納言・藤原吉野、参議・文室秋津は免官され、恒貞親王は皇太子を廃された。逸勢と健岑は最も重い罰を受け、逸勢は姓を「非人」と改めた上で伊豆へ、健岑は隠岐(後に出雲国に移されたが経緯は不詳)への流罪が決まった(承和の変)。

逸勢は伊豆への護送途中、遠江板築(浜松市三ヶ日町本坂)で病没した。60余歳という。このとき、逸勢の後を追っていた娘は板築駅まできたときに父の死を知り、悲歎にくれた。その娘はその地に父を埋葬し、尼となり名を妙冲と改め、墓の近くに草庵を営み、菩提を弔い続けた。

死後、逸勢は罪を許され、嘉祥3年(850年)太皇太后・橘嘉智子の没後まもなく正五位下の位階を贈られた。その際に逸勢の娘の孝行の話が都に伝わり賞賛されている。仁寿3年(853年)には従四位下が贈位された。仁安元年(1166年)には橘以政によって伝記『橘逸勢伝』が著された。

また、無実の罪を背負って死亡した事で逸勢は怨霊となったと考えられ、貞観5年(863年)に行われた御霊会において文屋宮田麻呂・早良親王・伊予親王などとともに祀られた。現在も上御霊神社と下御霊神社で「八所御霊」の一柱として祀られている。・・・(=ウィキペディア)

ひさかたの【久方の】

[枕]「天(あめ・あま)」「空」「月」「雲」「雨」「光」「夜」「都」などにかかる。

「うらさぶる心さまねし―天(あめ)のしぐれの流れあふ見れば」〈万・八二〉

「―月は照りたり暇(いとま)なく海人(あま)のいざりは灯(とも)し合へり見ゆ」〈万・三六七二〉

[補説]かかり方未詳。主に大空にかかわる語にかかるが、語義についても、「日射す方」の意、「久方・久堅」から、天を永久に確かなものとする意など、諸説がある。また、「ひさかたの光のどけき春の日に」〈古今・春下〉などは、一説に「日」そのものの意とする。(=goo辞書)

“ハレ”と“ケ”

柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ。民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレ(晴れ、霽れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)は普段の生活である「日常」を表している。ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別した。・・・(=ウィキペディア)

『伊勢物語』

平安初期に成立した歌物語。一巻。作者不詳。『在五が物語』、『在五中将物語』、『在五中将の日記』とも呼ばれる。・・・(=ウィキペディア)

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2014年9月 1日 (月)

私の世界・桂の歴史―桂大橋の歴史!?

「京都市歴史資料館」の“桂川西岸の村社会”特別展の配布資料にある桂大橋の話ですが、ウィキにも“桂大橋”があり、

1905年:近代的な桂大橋が架設される

1928年:現在の桂大橋が開通

1982年:拡幅工事が完成

とされています。

1905年というのは日露戦争(1904年(明治37年)28日~1905年(明治38年)95日))の最中、明治の後半に架設されたものです。

今の桂大橋は1928年の昭和3年に開通、その年は220日に大正デモクラシーの成果の最初の普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)が行われたのです。一方で6月4日に張作霖爆殺事件(満洲某重大事件)が起こり、7月に特高(特別高等警察)が設置され、戦争の臭いが色濃く漂い始めた頃です。

現在の桂大橋

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なお、1982年に拡幅工事が完成しています。

“桂川西岸の村社会”特別展の配布資料の中の「山陰街道の往来と桂川」の下りに、

元文4年(1739年)には、下流の牛ヶ瀬村にある土橋により、渡船の利用者が減少したとして、下桂村の業者が訴訟を起こしている。渡船業者はさらに下流の淀にも船荷の運搬について申しれを行っている。

とあります。

つまり、江戸時代中頃は、当然橋がなく渡し舟だったのですが、牛が瀬には土橋が出来ていたのです。

なお、元文4年は初の黒船(ただし、ロシア)の年です。

そして“渡リ舟”を生業としている下桂の村人たちの権利意識? というか、「はっきり文句を言って、可能なら別な提案・・」は感心するものです。

今なら、下流に橋が出来て渡船の生業が出来ないは「かなり、いちゃもん的・・」に感じるのです。例えば、小売商店街の近所に“大規模スーパーの進出”に訴訟はない話、今の方が「なく子と地頭に勝てない」、や「長いものにまかれろ」なのでは? と思ってしまいます。

1905年:近代的な桂大橋が架設される」までずっと“渡し舟”とは思えないので、牛ヶ瀬のような土橋がいつ頃出来たか? は課題として残るものです。

元文の黒船

日本の江戸時代中頃の元文4年(1739年)夏、牡鹿半島、房総半島、および伊豆下田などに、ロシア帝国の探検船が来航した事件である。アメリカ合衆国の黒船(米国東インド艦隊ペリー提督)による、嘉永期の黒船来航に114年先立つ、いわゆる「鎖国」期における、江戸幕府とロシア帝国との初めての接触であった。

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2014年7月28日 (月)

私の世界・桂の歴史―“桂川西岸の村社会”特別展、桂の所領細分化の理由!?

丸太町寺町上がるの「京都市歴史資料館」で“桂川西岸の村社会”特別展があり、桂の歴史には興味があるので行ってきました。86日までの月曜と祝休日を除いて、午前9時から5時までやっているそうです。

というか、四条烏丸の歯医者さんに“入れ歯”の調整に自転車で行ったついでに、少し足を伸ばした感じです。運悪く? というか、運良く祇園さんの今年から再会したという、“後の祭り”に出会いました。

子供の頃から良く見に行っていて、最初に勤めた事務所は菊鉾町ですから珍しくも何ともないので、無視して急ごうとしたのですが、バチが当たったのか、お池通りで本体の行列にぶち当ってしまい、お池が渡れず往生しました。

足が悪く“自転車頼り”なのに、人が余りにも多くて、歩かないといけなくて大変です。烏丸通りは信号で車が通っていたので、車と一緒に北上すれば? を思いつき、事なきを得ました。

それで、丸太町の「京都市歴史資料館」ですが、見学は自分だけで、かえって自由に見れました。

一番の収穫は、「豊臣政権は洛中に対する支配権を確立するため、公家や寺社などが有していた支配権を洛中から排除し、近郊の村々に代替地を与えた。徳川政権もこうした政策を継承する。このため、桂川西岸地域には小規模な公家・寺社領が多く、1つの村に複数の領主が存在する。」と言う記述です。

以前に「桂と所領が関係した公家」を調べたとき、ネットに載っていた「大名・旗本・公家・寺社所領一覧」を元に桂と所領が関係した公家のリストを作ったのですが、妙に土地が細分化されていて変に思ったのです。

以下、そのリストを再掲しておきます。

なお、米一石(150kg)は現在の価格(10kg=4000円)で6万円となり、江戸時代の米価は1石がほぼ金1両で、金1両は大工の手間賃では1両=3040万円、お蕎麦(そば)の代金では1両=1213万円だそうです。(manabow.comより)

<以下の石高は享保14年(1729年)で幕末から約130年前>

近衛家 高2,860石余(本家には、桂関係なし)

山城国 山城国合計(833.079

紀伊郡吉祥院村内(55.200

宇治郡五ヶ庄内岡屋村(383.049

久世郡批把庄村内(394.830

摂津国 摂津国合計(2,029.7336

桂宮(京極宮)家 高3008.285

下桂村(1112.520

徳大寺村(311.510

御陵村(163.050

徳大寺家 高410.4352

下津林村内(61.400

下山田村内(138.600

鷹司家 高1,500

川嶋村(530.700

三條西家 高500石余

上桂村内(200.000

松尾谷村内(25.0245

上山田村内(3.4000

松室村内(21.600

<以下の石高は幕末>

清水谷家 高200.005

岡村内(25.820

上桂村内(100.000

河鰭家 高152.21025

岡村内(5.520

花園家 高150.0005

上桂村内(2.878

中山家 高200

上山田村内(105.60

日野家 高1,153.7

下津林村内(253.000

広橋家 高858.0028

下津林村内(149.620

竹屋家 高180

川嶋村内(180

日野西家 高200

上桂村内(200

甘露寺家 高200.0948

松尾谷村内(20.4922

松室村内(17.6906

上山田村内(5.8500

葉室家 高183

下山田村内(95

中御門家 高200.0545

松尾谷村内(36.5054

松室村内(20.9471

上山田村内(7.6300

西大路家 高100.7328

岡村内(2.1900

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2013年5月 2日 (木)

私の世界・面白い話のネタ―「奇妙で素敵(=変?)な風景」(その②)

ネットの「Odd Stuff Magazine」の“Some Bizzare and Odd things around us・・”という写真集の「ジブラルタル空港は世界で最も異常な空港?」“Gibraltar Airport is one of the most extraordinary airports around the world.”の写真からです。

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ジブラルタル空港をマップで見ると、ジブラルタル海峡の東側、半島の真中を横切るような形で作られています。

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「道路を滑走路が横切っている」とも、「滑走路を道路が横断している」とも言えるものです。どちらも通行量が少なく、分け合って利用で、いい感じなのです。「異常な空港」は言い過ぎと思います。

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それと日本の建設省(今は国土交通省)なら、きっと道路の方をトンネルにしてしまうでしょう。

注)建設省(Ministry of Construction

2001年(平成13年)15日まで存在した国土・都市計画、市街地整備(下水道ほか)、河川(水防砂防)、道路、建築物(一般基準・市街地建築ほか)、住宅政策、官庁営繕等に関する行政を取扱う中央省庁である。(=ウィキペディア)

話しは別に①:桂の「千代原口交差点の立体交差」は、道路の交差点までトンネルにしてしまったのです。効果の程は、最初は「トンネルを通った方が混んで遅くなる」とみんな笑っていたのですが、走るのに慣れるとさすがに渋滞が少なくなったようです。

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YouTubeの「国道9号 千代原口トンネル」より

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話しは別に②:建設省というと、若いころ勤めていたシステム科学研究所は近畿地方建設局の仕事をしていました。担当に○○賢治さんという人が居て、電話に出ると「近畿地建の○○賢治です」と言います。「近畿地検の○○検事と間違われて困るんや・・」と嬉しそうに笑っていたのを思い出しました。

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2012年4月23日 (月)

私の世界・桂の歴史―明治の桂

以前、元禄国絵図(16961702年 国立公文書館)を桂の最も古い地図として紹介したのですが、明治22年の地図(陸地測量部発行:知郷書版)です。

元禄国絵図と桂はほとんど変わりなく千代原村、上桂村、下桂村、徳大寺村があります。桂村は桂離宮の近辺だけのようです。その他には川嶋、岡、御陵、下山田、谷、松室、上野などの村々が在ったようです。

下津林の先に土手のようなものが東海道線で、1877年(明治10年)26日:京都駅~大宮通仮停車場間(40C11L0.81km)が延伸開業。大宮通仮停車場が廃止、京都駅が開業。前日の25日には、神戸駅 - 京都駅間全通を記念して明治天皇を迎えて京都駅で鉄道開通式を実施しています。

<東海道線の歴史(京都駅開業まで、関連したもの)>(=ウィキペディア)

1872年(明治5年)612(太陽暦(グレゴリオ暦)・この年12月まで日本は旧暦(太陰太陽暦)を採用していて、それに従うと57日):品川駅~横浜駅間(14M57C78L23.69km)が旅客線として仮開業。品川駅・*横浜駅(初代、現在の桜木町駅)が開業。当時は無停車で12往復というものであった。所要時駅間は35分。

1874年(明治7年)511日:大阪駅~神戸駅間(20M27C56L32.74km)が旅客線として開業(三ノ宮駅~神戸駅間複線)。大阪駅・西ノ宮駅(現在の西宮駅)・三ノ宮駅・神戸駅が開業。

61日:神崎駅(現在の尼崎駅)・住吉駅が開業。

121日:大阪駅~神戸駅間で貨物営業を開始。

1876年(明治9年)726日:向日町駅~大阪駅間(22M56C57L36.54km)が旅客線として延伸開業。向日町駅・高槻駅が開業。

89日:山崎駅・茨木駅・吹田駅が開業。

95日:向日町駅~大宮通仮停車場間(3M47C5.77km)が延伸開業。大宮通仮停車場(現在の京都貨物駅付近)が開業。

1877年(明治10年)26日:京都駅~大宮通仮停車場間(40C11L0.81km)が延伸開業。大宮通仮停車場が廃止、京都駅が開業。前日の25日には、神戸駅~京都駅間全通を記念して明治天皇を迎えて京都駅で鉄道開通式を実施。

明治22年の桂近辺

(版権の問題があって知郷書版を調べたのですが現在は営業していないのかネットでは分かりません。もし、版権をもっている方がありましたら連絡下さい。掲載がダメなら、削除します。)


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2011年10月27日 (木)

私の世界・桂の歴史―桂川原の戦い

私の不勉強で知らなかったのですが桂川の川原で天下分け目?の決戦が行われています。(以下ウィキペディアより)

桂川原の戦いは大永7212日(1527314日)夜中から213日まで京都桂川原一帯で行われ、この戦いは堺公方の誕生のきっかけとなります。

細川春元の家臣の波多・三好軍(西軍)と室町幕府・細川高国・武田元光軍(東軍)の戦い。指揮官は西軍が波多野稙通・柳本賢治・三好勝長・三好政長、東軍が細川高国・武田元光です。

―戦況―

西軍は細川高国軍は、主力として鳥羽から鷺の森辺?まで川沿いに隙間無く一文字に陣をしき、本陣はそこから少し後方の六条に12代将軍足利義晴自らが陣をしき、後詰の軍として本陣から北側、桂川の川勝寺に武田元光軍が陣をひいた。

戦闘は212日夜中、川を挟んだ矢の応酬から始まった。

213日、主力への攻撃を予想した細川高国軍に対して、三好軍は裏をかいて桂川を渡河、後詰の武田軍に襲い掛かった。かなりの激戦となったが、武田軍は死者80名を出し敗退した。これに危機感を覚えた高国は自ら武田軍に救援に向かったが、高国の甥の大納言日野高光(日野家当主)は戦死してしまい、精鋭の荒木父子も戦死、

馬廻り10名前後

雑兵300

を失うという大敗をして兵を退いた。波多野・三好連合軍も三好勝長が瀕死の重傷を負ったほか、80名の戦死者が出たが、天下分け目の合戦は波多野・三好連合軍が勝利した。

―戦後―

細川高国は214日、足利義晴を奉じて坂本に逃げ去った。この逃亡には大きな意味がある。将軍や管領が京都を落ち延びることは今まで何回もあったが、評定衆や奉行人といったものまで逃げ出してしまったため、京都幕府は崩壊してしまった。

代わって、高国と管領職を争っていた細川晴元が、足利義維を擁した形で和泉国の堺を拠点とし、京都への支配を行うようになったため、京都の公家や権門から「堺公方」「堺大樹」と呼ばれた。大永7年(1527年)から享禄5年(1532年)にかけて、堺の顕本寺を本拠にして京都はじめ畿内を支配した。

天下分け目にしては小競り合いのような戦いで、「鳥羽から鷺の森辺」の「鷺の森」は吉祥院辺りではないかと思います。川勝寺は西京極にあるお寺ですが戦国の頃は平城があったのです。

川勝寺城跡:室町時代平城跡(西京極中町)七条通の北側に造られた平城。

(財団法人京都市埋蔵文化財研究所)

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2011年10月26日 (水)

私の世界・桂の歴史―話しは別に:桓武天皇はすごい

朝原親王の年代の人間関係を整理していて気が付いたことがもう1つ。

この頃の天皇は精力的に驚くものがあって、桓武天皇は26人以上の皇后や妃、夫人、女御、更衣、女宮、女嬬、掌侍の女性を相手に35人以上の子、嵯峨天皇は31人以上の女性に47人以上の子を生ませています。体が弱いと言われた平城天皇でも9人の皇后や妃、宮人の女性に7人の子です。

この頃は異父母の兄弟婚が普通に行われています。彼等の優秀なDNAを高めあう意味があったのかも知れません。

桓武天皇は父の光仁天皇と高野新笠(夫人)の子ですが光仁天皇と井上内親王(皇后)の子の酒人内親王(異母兄弟)を妃に朝原内親王をもうけ、朝原内親王の夫の平城天皇(安殿皇太子)は桓武天皇と藤原乙牟漏(皇后)の子です。

その子供たちが次の世代の天皇や皇后だけでなく官僚や僧侶、またその妻となって国を治める社会事業や国史の編纂など文化事業を支えているのです。

その1つの例として桓武天皇の子の良岑安世(延暦4年(785年)~天長776日(83082日))があげられます。母が女嬬の百済永継ですが『日本後紀』「内裏式」の編纂にかかわったほか、『経国集』の編纂を主宰。漢詩に優れ、『凌雲集』に2首、『文華秀麗集』に4首、『経国集』に9首が入集しています。

また、空海との親交でも知られ『性霊集』には安世に贈られた詩が多数収められているそうです。

注)良岑安世:802年(延暦21年)良岑朝臣の姓を賜って臣籍に下り、809年(大同4年)従五位下に叙せられた。武官を兼ね、書や音楽にも秀でていたという。右近衛少将・雅楽頭・左大弁などを歴任し、811年(弘仁2年)には蔵人頭に任じられた。その後、左衛門督・右大弁を兼任した。816年(弘仁7年)に参議、821年(弘仁12年)に従三位中納言に任じられた。その後、陸奥按察使・春宮大夫・右近衛大将などを兼任している。828年(天長5年)には大納言に至る

女孺(にょじゅ):後宮において内侍司(ないしのつかさ)に属し、掃除や照明をともすなどの雑事に従事した下級女官。(ウィキペディアより)

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2011年10月24日 (月)

私の世界・桂の歴史―話しは別に:朝原内親王とダイアナ妃

空海と朝原親王の関係を整理していて気が付いたのは、朝原内親王の夫の皇太子安殿親王(後の平城天皇)はチャールズ皇太子のように女性関係のルーズな人のようです。

当時の日本の皇族や今のイギリス王家・貴族のどの「食うに困らず何をしても良い特権階級」では人間の本性をもろに出す人がいるのか、血筋を絶やさないことの代償として不倫や多妻が認められているのか?平民の私には想像できない社会です。

腹違いの兄を夫にさせられて?その彼が、もう1人の妻の母と不倫関係で臥内に出入りし、政治的にも利用されている(している?)というのは可哀想過ぎです。せめてもの反抗で彼が上皇になって平城に移るときに行動を共にしていません。

ダイアナ(1961年~1997年)はチャールズ皇太子(1948年~)と1981年に結婚します。その後2人の王子が誕生(内親王は子を生んでいません)。チャールズは以前からの不倫関係を清算せず、結婚後もカミラ(1947年~)との関係が続き、同じく不倫に走ったダイアナ(内親王は?)との関係は悪化して19968月離婚しました。(ダイアナが「不倫に走った」のは単なる当て付け?)

藤原薬子(生年不詳大同5912日(8101017日))

平安時代初期の女官。式家の藤原種継の子。中納言藤原縄主の妻で三男二女の母。長女が桓武天皇の皇太子安殿親王の宮女となり、東宮宣旨(高級女官)として仕えるようになると安殿親王に愛され不倫の仲となった。薬子は藤原葛野麻呂とも通じていたとされる。桓武天皇は怒り、薬子を東宮から追放する。

806年、桓武天皇が崩御して安殿親王が即位する(平城天皇)と、薬子は再び召され尚侍となる。夫の縄主は大宰大弐として九州へ送られる。天皇の寵愛を一身に受けた薬子は政治に介入するようになる。兄の藤原仲成とともに専横を極め、兄妹は人々から深く怨まれた。大同4年(809年)、亡き父の藤原種継に太政大臣を追贈させる。

同年、平城天皇は病気のため神野親王(嵯峨天皇)に譲位する。退位した平城上皇は平城京へ移る。 このため平安京と平城京に二所の朝廷が並ぶようになり、薬子と仲成が平城上皇の復位を目的に平城京への遷都を図ったため二朝の対立は決定的になった。

大同5年(810年)910日、嵯峨天皇は平安京にいた仲成を捕らえて、薬子の官位を剥奪して罪を鳴らす詔を発した。平城上皇は薬子と挙兵のため東へ向かったが、嵯峨天皇は先手をうって坂上田村麻呂を派遣して待ちかまえた。勝機のないことを知った平城上皇は平城京に戻って剃髮し、薬子は毒を仰いで自殺した。仲成も殺された。(=ウィキペディアより)

話しは別に:カミラはシャンド家の娘としてロンドンで生まれ、曾祖母のアリス・ケッペルはエドワード7世の長年の公妾だそうです。

(長年の王族の妾の家柄?ということ)

ダイアナ妃の母フランセスは父のスペンサー伯爵と離婚後、カミラの親戚筋のシャンド家のピーター・シャンド・キッド氏が不倫相手で再婚しています。

(この人達は何なんでしょう?「破廉恥」と言う言葉を知らない?)

関係ないことかも知れませんがプレイボーイの代名詞のようにいわれる在原業平は安殿親王(後の平城天皇)の孫です。

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2011年10月22日 (土)

私の世界・桂の歴史―話しは別に:空海と朝原内親王

2人の年代を見ていて気が付いたのですが朝原内親王と空海は同じ時代と空間を生きています。(年齢は空海が4歳上)

ひょっとすると桂の内親王の隠居所に空海は尋ねているか内親王が空海のお寺(乙訓寺)に行っているかも知れません?

朝原内親王の母は酒人内親王(天平勝宝6年(754年):天長6820日(829925日))です。光仁天皇の皇女で母は皇后井上内親王、伊勢斎王となりのち桓武天皇妃となって宝亀10年(779年)に朝原内親王を産みます。祖母(井上内親王)・母(酒人内親王)・娘(朝原内親王)と3代にわたり斎王を勤めているのです。

延暦元年(782年)4歳で斎王になり延暦15年(796年)に18歳で退下します。

空海は延暦11年(792年)18歳(朝原内親王の4歳上)で京の大学寮に入ります。

延暦12年(793年)大学での勉学に飽き足らず19歳を過ぎた頃から10年ほど吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行に入ります。

延暦23年(804年)遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡り、2年(大同元年(806年)10月)で帰国します。20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため入京の許しを待って数年間大宰府に滞在する。

大同4年(809年)空海は入京して高雄山寺(後の神護寺)に入る。

大同5年(810年)、薬子の変が起こったため、嵯峨天皇側につき鎮護国家のための大祈祷を行う。

薬子の変が起って朝原内親王は夫の平城上皇とは行動をともにせず、弘仁3年(812年)の5月異母姉妹の大宅内親王と揃って妃の位を辞しています。(内親王33歳)

弘仁2年(811年)から弘仁3年(812年)に乙訓寺の別当を務めている。

朝原内親王は弘仁8年(817年)に38歳で薨じます。

弘仁14年(823年)正月、太政官符により東寺を賜る。(空海49歳)

そして、朝原内親王の母酒人内親王は晩年の弘仁14年(823年)120日、空海に遺言状を代作させるのです。その遺言状には内親王を失った悲しみを表してあるそうです。天長6年(829年)820日、76歳で薨じています。

注)薨じる(こう):死ぬ

空海は遺言状を代作しているとき、内親王のことを考えていたのでしょうか?

追加)遺言状が収められているのは「性霊集」で、正しくは『遍照発揮性霊集』です。

注)『遍照発揮性霊集』は、空海(弘法大師)の漢詩文集。10巻。編者は弟子真済。成立年不詳。

変な言葉つながりがあって、遍照寺は先に『私の世界・桂の歴史―千代原の「朝原」と言う呼び名』の最後に書いている千代原山と朝原山のあるお寺です。

これも空海の念力のなせる技なのか?

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