下桂の桂離宮近くにある御霊神社のHPには「桂の地が読み込まれたおもな和歌」が紹介されています。
その“下桂・御霊神社”に橘逸勢が祀られていて、彼は空海・嵯峨天皇と共に三筆と称され、また暦23年(804年)に最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡っています。
そんな高貴な人が何故この私が住む田舎(自分の住んでいた中京に比べ、京都御所から離れているという意で、家内の言)の“桂”の神社に祀られているのか不思議? というか、大いなる謎なのです。
また、「桂の地が読み込まれたおもな和歌」は空海と朝原内親王の関連で橘逸勢を調べていて分かったことで、何か彼らに導いてもらった感じなのです。
「桂の地が読み込まれたおもな和歌」(“下桂・御霊神社”のHPより)
・いさここに我世はへなん久かたのかつらの里の月のよるよる 後鳥羽院
・月のすむ河の彼方(おち)なる里なれば桂の影はのどけかるらん 源氏物語
・久堅の光に近きここちして朝夕霧もはれぬ山里 源氏物語
・影宿す月の桂もひとつにて空より澄める秋の川水 大納言為氏
・久かたのかつらの里のさよ衣おりはへ月のいろにうつなり 続古今集・定家
・久かたの桂のさとの卯花は月かあらぬか夕くれのそら 夫木集・為家
・こよいわが桂の里の月を見て思いのこせることのなきかな 金葉集・経信
・久方の月に生いたる桂川 底なる影も変わらざりけり 土佐日記・紀貫之
「桂には月」という歌がほとんどで、桂は古くから観月の景勝地で皇族や藤原氏など貴族の別荘があり桂川では船遊びをしたそうです。(具体的には藤原道長の別荘も・・)
なお、“ひさかた”は月に掛かる枕詞ですが、私には「久しぶり・・」というか? いわゆる、“ハレ”と“ケ”のハレ=非日常の場、別荘や遊び(お祭り)を思い起こします。
いろいろ調べてみると、
・ひさかたの桂のかげになく鹿はひかりをかけて声ぞさやけき 後鳥羽院
・ひさかたの月の桂も秋はなほもみぢすればや照りまさるらむ 古今集・壬生忠岑
という和歌に出会いました。
ただし、残念なことにどちらも桂の里ではなく桂の木を歌ったもので、月には桂の大木が生えているという中国からの言い伝え(『酉陽雑俎』)があったそうです。
注)『酉陽雑俎』(ゆうようざっそ):中国の唐代に荒唐無稽な怪異記事を集録した書物である。段成式(803年 - 863年)撰、20巻・続集10巻。860年(咸通元年)頃の成立である。
ただ、「ひさかたの月の桂も秋はなほもみぢすればや照りまさるらむ」を読んでいるうちに不思議な衝動? というか、感動が起こりました。
つまり、“月の桂”を「月に照らされた桂の里」としても、何んの問題もないことに気付きました。(ただし、私は和歌の専門家・研究者ではありませんので、本当のところは知りません)
子供の頃から住んでいる桂の里は、月が東山から出て桂川を写り照らし、西山は秋になると美しい紅葉となるのです。関係はありませんが、もちろん、初夏の新緑の頃もいいもので、まして夕焼けの空を背にした小塩山など西山連峰とその前に丘陵が重なる景色はすばらしいものがあります。
昔の桂に別荘を持ったりそこに招待された高貴な人達が、月に生える桂の木になぞらえ、桂の里を思うのは不思議なことではありません。
最後にもう1つ、“isemonogatari.com”というサイトから発見したのですが、『伊勢物語』の第七十三段に“月のうちの桂”があります。
・目には見て手にはとられぬ月のうちの桂のごとき君にぞありける
その解説に、
「その人の居場所はわかっているが、逢うことも文を贈ることもできない。月の桂のようなあなた。切ない歌です。69段からの流れから見て、相手は伊勢の斎宮と見れます。この歌は『万葉集』の湯原王(ゆはらのおおきみ)の歌をもとにしています。
・目には見て手には取らぬ月の内の桂のごとき妹をいかにせむ
つれない女を恨む男の歌です。これも前段と同じく、万葉集の歌を少し言葉をもじって詠んでいます。」
とあります。
「桂に住む伊勢の斎宮」といえば朝原内親王を思わずにはいられませんが、朝原内親王は桂の真ん中にある千代原村の元の地名の“朝原”の由来の人で、“朝原”は斎宮になる前の禊のための住まい(宮殿)を設けた場所です。
「月のうちの桂」は彼女のことを想定しているのではないか? と思ってしまうのです。
つまり、地名の“桂”はそこに滞在した高貴な人達の「月の桂」からの連想から始まったようで、田舎などと言うのはとんでもないことです。
橘 逸勢(延暦元年(782年)? ~承和9年8月13日(842年9月24日))
平安時代初期の書家・貴族。参議・橘奈良麻呂の孫。右中弁・橘入居の末子。官位は従五位下・但馬権守、贈従四位下。書に秀で空海・嵯峨天皇と共に三筆と称される。
延暦23年(804年)に最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡る。中国語が苦手で、語学の壁のために唐の学校で自由に勉強ができないと嘆いている。おかげで語学の負担の少ない琴と書を学ぶことになり、大同元年(806年)の帰国後はそれらの第一人者となった。
承和7年(840年)に但馬権守に任ぜられる。のち、老いと病により出仕せず、静かに暮らしていたという。
承和9年(842年)の嵯峨上皇が没した2日後の7月17日に皇太子・恒貞親王の東国への移送を画策し謀反を企てているとの疑いで、伴健岑とともに捕縛された。両者は杖で何度も打たれる拷問を受けたが、両者共に罪を認めなかった。しかし、7月23日には仁明天皇より両者が謀反人であるとの詔勅が出され、春宮坊が兵によって包囲された。結局、大納言・藤原愛発や中納言・藤原吉野、参議・文室秋津は免官され、恒貞親王は皇太子を廃された。逸勢と健岑は最も重い罰を受け、逸勢は姓を「非人」と改めた上で伊豆へ、健岑は隠岐(後に出雲国に移されたが経緯は不詳)への流罪が決まった(承和の変)。
逸勢は伊豆への護送途中、遠江板築(浜松市三ヶ日町本坂)で病没した。60余歳という。このとき、逸勢の後を追っていた娘は板築駅まできたときに父の死を知り、悲歎にくれた。その娘はその地に父を埋葬し、尼となり名を妙冲と改め、墓の近くに草庵を営み、菩提を弔い続けた。
死後、逸勢は罪を許され、嘉祥3年(850年)太皇太后・橘嘉智子の没後まもなく正五位下の位階を贈られた。その際に逸勢の娘の孝行の話が都に伝わり賞賛されている。仁寿3年(853年)には従四位下が贈位された。仁安元年(1166年)には橘以政によって伝記『橘逸勢伝』が著された。
また、無実の罪を背負って死亡した事で逸勢は怨霊となったと考えられ、貞観5年(863年)に行われた御霊会において文屋宮田麻呂・早良親王・伊予親王などとともに祀られた。現在も上御霊神社と下御霊神社で「八所御霊」の一柱として祀られている。・・・(=ウィキペディア)
ひさかたの【久方の】
[枕]「天(あめ・あま)」「空」「月」「雲」「雨」「光」「夜」「都」などにかかる。
「うらさぶる心さまねし―天(あめ)のしぐれの流れあふ見れば」〈万・八二〉
「―月は照りたり暇(いとま)なく海人(あま)のいざりは灯(とも)し合へり見ゆ」〈万・三六七二〉
[補説]かかり方未詳。主に大空にかかわる語にかかるが、語義についても、「日射す方」の意、「久方・久堅」から、天を永久に確かなものとする意など、諸説がある。また、「ひさかたの光のどけき春の日に」〈古今・春下〉などは、一説に「日」そのものの意とする。(=goo辞書)
“ハレ”と“ケ”
柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ。民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレ(晴れ、霽れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)は普段の生活である「日常」を表している。ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別した。・・・(=ウィキペディア)
『伊勢物語』
平安初期に成立した歌物語。一巻。作者不詳。『在五が物語』、『在五中将物語』、『在五中将の日記』とも呼ばれる。・・・(=ウィキペディア)